第2話 あの子の慰め
高校2年生のあの時期に、明梨のことをすっぱりと諦められたのは良いことだったのだと、俺はそう思うことにした。高3になれば、受験本番。志望校合格のために、勉強以外のことにうつつを抜かすことは避けるべきだ。風気委員長の仕事も、着々とこなした。ウチの高校では三年生の委員会は夏前まで。六月中には時期委員長と副委員長が決まり、仕事の引き継ぎを行う。進学校として名高いウチの高校は、委員会や部活の顧問はいるものの、基本的には生徒主体で全ての引き継ぎが行われる。だから、新年度に入ってからも、今後の後輩への引き継ぎ業務もあり、浩実とは何度も放課後に顔を合わせて、委員会の仕事をした。あの日のことは、二人の間で特に口にすることはなかったが、心なしか、以前よりも距離が縮まった気がする。それまでお互いを苗字で呼んでいた俺と浩実だが、どちらからともなく「幹孝くん」「浩実」と下の名前で呼び合う仲になった。同級生には、もしや付き合い始めたのかと疑惑を持たれることもあったが、俺も浩実もそんな風に囃される度に「そういうんじゃない」とやんわりと否定した。実際、委員会外での付き合いや浮いた話はなかったし、夏休みに入るとお互いに勉強に打ち込み、話をする機会も格段に減った。とは言え、委員会で会話をする機会が減った代わりに、高校で受験勉強のために開かれていた夜特訓という通常授業後の特別講義ではお互いの苦手な単元を教え合うなど、交流がなくなるわけではなかった。
そして遂に合格発表の日、俺は第一志望に無事合格。私立受験で先に合格の報せをもらっていた浩実に、その日は俺から連絡を入れた。
「受かったよ」
「おめでとう、幹孝くん!」
浩実は俺の合格の報せに対して、自分ごとのように喜んでくれた。
「これで俺も浩実も晴れて大学生かあ」
「今から緊張するね」
「受験の緊張から解き放たれたんだから、今くらいのんびりしようよ──」
そんな風に、受験合格という勝利を手に入れた者同士、気楽なお喋りをしていたその時だった。
「──ごめん、ちょっと切る」
「え? 幹孝く──」
浩実との会話中、スマホに一本の着信があった。その名前は、この一年間、記憶の奥底に押し込んで、思い出すのを封印していたものだ。それでも、出ないという選択肢はなかった。
「明梨」
「幹孝、久しぶり」
電話口の向こう側から、少しくぐもった明梨の声が聞こえてきた。俺はその声を聞いて、思わず感情が昂り、声を荒げたくなる。けれどその激情を押し込めて、冷静な口調で明梨に応えた。
「大学受かったよ」
「ホント? 良かった。流石だね」
彼女の昔と変わらない声に、俺の情緒が乱れる。明梨が知らない男と体を重ねていた現場を見たあの日、浩実から「まだ好きなの」と問われたことを思い出す。俺はきっと、未だに明梨を諦めきれていない。俺と明梨はずっと一緒で、あいつが隣にいるのはもう当たり前だった。あいつのことは、俺が一番良く知ってると、そう思っていた。けど、俺はあいつがそういう仲にある相手がいることすら知らなかった──。
「今日はどうして」
「うん、幹孝とはあれ以来話してないし、私も迷ったんだけど、伝えるなら連絡しといた方が良いかな、と思って」
「何を──」
「私ね、結婚する」
「……は?」
明梨の言葉が、耳に入っていかない。言葉としては捉えている。脳がその言葉の意味を理解するのを拒んでいるだけだ。
「それは……」
あの日、明梨とセックスをしていたあいつと? わからない。わからないわからない。わかりたくも、なかった。
「赤ちゃんもできたんだ」
だから、続くその言葉もわからない。俺は暗闇の中でただ独り、外の世界の音が届かない場所でじっと座り込んでいる。
「幹孝、あのね――」
「おめでとう。良かったね」
俺は薄っぺらな祝福の言葉を並べる。明莉はそんな俺に対してまだ何か口にしているが、遂に明莉の言葉が何も頭に入らなくなった。その時、彼女が何を言っていたのか、どんな話を俺にしたのか、まるで覚えていない。
「――言えて良かった」
「俺も、大学のこと言えて、良かった」
そこで俺は明莉との通話を終えた。俺はその場で眩暈と吐き気に襲われて、吐いた。自室の勉強机の上が吐瀉物でびしゃびしゃになる。俺はみっともない思いでそれをティッシュでふき取って、涙を堪えて、叫び出したいのを我慢して、スマホを壁に投げつけようとして――不意に、着信音が鳴った。俺はスマホの液晶画面を見る。着信相手は浩実だった。
「もしもし」
「幹孝くん? 良かった、出てくれた」
「え?」
「何度かけても、出なかったから」
俺は着信履歴を見た。確かに、浩実から3回着信が入っている。明莉との通話中に一回、それが終わってから2回。どうやら明莉の声だけでなく、それ以外の音も本当に耳に入っていなかったらしい。
「大丈夫……」
「でも」
「大丈夫だから!」
さっきまで押さえつけていたはずの激情が漏れる。俺は口を押さえた。
「ごめん、心配かけた。ありがと」
俺はそれ以上、今あったことを反芻したくなくて、浩実との通話を一方的に切った。その瞬間、堰き止めていた涙がボロボロと流れてきた。どこかでまだ、希望を持っていた。明莉との連絡を絶ったのは、受験もあったからで、きっと俺は彼女に告白することを諦めていたわけじゃなかったのだ。それが今、完全に断ち切れたと思った。こんなに早く希望が断たれることは想像してもいなかった。
「くそっ!」
俺は悪態をついて、そのまま布団の上に横になる。その日は何も夢をも見ることなく、気づけばただただ真っ暗闇の中で目が覚めた。まだ夜中の3時だった。俺は一度むくりと起き上がると、小さく唸って布団を被り直した。夢は見なかったが、一度寝て頭が冷えたからなのか、俺の脳味噌の中で改めてさっきの明莉の言葉が反芻された。
――結婚、赤ちゃん。
その言葉と共に想起されたのは、あの日見た明莉の姿だった。艶やかに頬を染め、男の欲望を受け止め、体液に塗れ、汗だくになった明莉の裸。その明莉の姿が、俺の頭の中でどんどんどんどんと鮮明になっていく。それと共に、自分の興奮が大きくなっていくのがわかった。心拍数は跳ねあがり、股間がはち切れそうに痛い。全速力で走った時みたいに、息が荒くなっている。俺はゆっくりと深呼吸をして、この身体の昂ぶりを鎮めようと試みたが、無駄だった。俺はスマホを開く。あの後、もう1度だけ浩実から着信が入っていた。それを見て、少しだけ冷静になる。さっきのはただの逆ギレだ。
『昼間はごめん。』
また激情に頭が支配されないうちに、と俺は浩実にメッセージを送った。浩実はまだ寝ているだろうが、こうしてメッセージを送っておくだけで明日学校で改めて謝りやすい。そう思って、俺はスマホを枕元に置こうとした瞬間に、着信音が鳴った。――浩実からだった。
「もしもし」
「ごめん、起こした?」
「ううん、寝れなかっただけ」
「もう4時になる」
「そうだね」
電話口の向こうから、小さな笑いが漏れた。俺が馬鹿なばっかりに、無理に心配をかけてしまったのだと顔が熱くなる。
「何があったの、って聞かない方が良い?」
「うん。いや――」
そこで俺は浩実が言っていた言葉を改めて思い出した。
――また、その子のこと思い出してどうしようもなくなった時は、私のこと呼んでよ。今日みたいに。
「なあ、浩実」
「なあに、幹孝くん?」
「あの時浩実が言ってたこと、今でも有効かな」
〇
「こんなに暗い中、外出たの初めて」
「俺もだよ」
俺と浩実は高校の校門の前に来ていた。時刻は朝の4時過ぎ。深夜というより、もう夜明け前だ。そのまま学校の開校時間になってもいいように二人とも制服を着用してきた。当然、学校の門は開いていない。けれど、風紀委員長をやっていた頃に、もしものために裏門の鍵が門を越えた先の百葉箱の中にあることを、俺は知っていた。俺は門を乗り越えると、鍵を入手して、裏門の扉を開ける。門の前で待っていた浩実を中に招き入れ、裏門をもとあったようにしっかりと閉じた。
「悪いことしてるね、私たち」
「ああ」
「風紀委員なのに」
「もう卒業だ」
学校に忍び込もうと言ったのは、浩実のアイディアだった。幹孝くんに何があったか知らないけど、そんなにつらいことならそれを超えるスリルで塗り替えちゃえば良いんだよ、というのが彼女の言い分だ。普段、真面目くさっているからこそ、こういうタガを外せそうな機会を見逃さないのかもしれない。普段の俺であれば、あまりに馬鹿馬鹿しい提案に、さっさと却下をくだすところだが、彼女のその提案はなぜかとても甘く、魅力的に感じた。
「で、この後は?」
俺の問いかけに、浩実は困ったように肩を竦めた。
「考えてない」
「おい」
ノープランかよ。俺は笑いを堪えきれず、その場で腹を抱えて笑った。浩実もそれにつられるようにして、口元をおさえながらくつくつと笑う。俺も浩実も深夜のテンションでおかしくなっている。結局、校舎に入ると警備が作動することは俺も浩実も知っていたから、老朽化していて今はほとんど使われていない部室棟に足を向けた。俺もここには数えるくらいしか立ち入ったことがない。その部室棟のうちのひとつ、旧美術部部室の鍵が壊れているのを、昔先生に聞いたのを思い出し、俺と浩実はその部室に入った。使われていないとは言え、定期的に掃除はされており、埃こそ積もっているものの、我慢できないほどではない。俺と浩実は部室の中にあったパイプ椅子を二つ広げ、埃を掃うと一緒に座った。そのまま二人で向かいあい、じっとお互い見つめあった。わけのわからないテンションのまま、ここまで来たが結局これからどうしたいのか、何も決めていない。
「あの時私が言ってたことだっけ」
椅子に座って、スマホの明かりだけで照らされた暗闇の中で最初に沈黙を破ったのは浩実だった。
「それって、幹孝くんの好きな、その」
「明莉だ」
「そうその子。そのこと、だよね」
「うん」
「その子のこと思い出して、どうしようもなくなった時」
「呼んでくれていいって、浩実はそう言ってた」
「……うん」
浩実は笑っているのか怒っているのか、そんな複雑な表情を浮かべ、視線を床に向ける。
「何か、思い出しちゃった?」
「というか、明莉から連絡があった」
「そ、そうなんだ」
「結婚するんだって」
「……はあ?」
浩実が大きな声を出した。俺は一応、人差し指を口元にあてて、静かにするように促す。浩実は声を出さずに、うんうんと繰り返し頷いた。
「え、なにそれ」
「赤ちゃんもできるって」
「え、ええ?」
「それで俺、パニックになって」
「それは、なるよね……」
浩実は脚を組んで頭を抱えた。あまり見たことのない浩実の仕草だ。
「え、デキ婚ってこと?」
「多分」
「同い年だよね?」
「うん」
「そんなの……ッ。ううん、ごめん。何でもない」
浩実は大きく溜息をつく。俺の方は、浩実に受け止めきれなかった事実を伝えたことで、改めて頭の中がごちゃごちゃとしてきた。明莉の声が、明莉の裸が、繰り返し繰り返し、反芻する。後頭部をノミで削り潰されそうな感覚だ。俺はまた吐き気に襲われて、パイプ椅子から立ち上がった。
「幹孝くん!?」
俺は美術部部室の扉をガラガラと開けて外に飛び出る。我慢していた吐き気が一気に来て、俺は部室の入り口で吐いた。夕飯を食べることなく眠ったから、臭い胃液だけが吐き出される。
「ねえ、大丈夫?」
「ごめん」
「謝らないで」
ふっと、俺の背中に温かいものが覆いかぶさった。それが浩実本人だというのに気づくまで、そう時間はかからなかった。
「こっちこそごめん。やっぱり聞かない方が良かったよね」
「そんなことない」
「……ねえ、私こうも言ったよね」
浩実の両腕が俺の首元の前で交差して、彼女の体温と息を感じる。それなのに、俺の頭の中ではまだ明莉が俺に向けて笑いかけていた。
「私、何でもするからって」
「言ったけど」
「あのね、幹孝くん。さっきも言ったけど、つらいことは他のことで塗り替えちゃえばいいんだよ」
浩実が俺の背中から剥がれる。俺が振り向くと、浩実が自分の上着のボタンを一つずつ丁寧に外していた。
「浩実?」
「私でよければ、その助けになる」
浩実がそう言って、上着を脱ぎ棄てる。彼女の柔肌が露わになり、彼女はそのまま躊躇うことなく、下着も外した。俺の目の前で、胸をさらけ出した浩実が堂々と仁王立ちをする。あの日見た明莉の胸よりも小ぶりなそれはしかし、日の出前の小さな明かりで照らされてつややかに輝いて見えた。俺は口元を拭い、立ち上がる。浩実がゆっくりと俺に近づいて、吐瀉したばかりの俺の口にキスをした。
「私のこと、好きにして良いから」
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