気に入らねえ
「お待たせいたしんした」
「いや⋯⋯こちらこそ待たせたな?」
見ればどこか疲れた様子。そのせいか、いつもより目つきがマシだろうか。
走って来た? 体が少し汗ばんで熱を⋯⋯。
「いえ、来てくんしただけでわっちは⋯⋯」
「そうか⋯⋯」
「あい⋯⋯」
遅れて来た彼は花紙を撒いて少しピリついていた妓楼の空気を和らげた。
それにしても、こんなに散財出来るほど柴田家に財産があるとも思えないのだが、彼はどのようにして金を工面したのか。
詮索はしない。
とにかく彼は来たのだ。
「小夜姉様。床が用意出来んした」
「そう⋯⋯ありがとう。それから小雪? 今夜のわっちは咲夜でありんす」
「あい、わかりんした」
京四郎様へ視線を飛ばすが、酒を飲んで窓の外の月を眺めている。
「京四郎様?」
「ああ⋯⋯少し話さないか?」
「⋯⋯わかりました。小雪?」
「あい、失礼いたします」
禿の小雪が出て行った。これで部屋には私と京四郎様の二人きりだ。
「うっ⋯⋯」
「京四郎様? どこかお加減でも悪うござんすか?」
「いや、なんでもない」
「なんでもないと言いながら、体中から汗が⋯⋯お拭きいたします」
私は乾いた手拭いで彼の額の汗を拭い、首元、胸元へと汗を拭い取ってゆく。
「構うな!」
「いいえ、ここは吉原。殿方を放っておく女郎などおりせん!」
「⋯⋯つっ!!」
「え⋯⋯?」
袖をまくった腕に切り傷。
「これは⋯⋯」
「問題ない。ただの傷だ⋯⋯」
「そう⋯⋯ですね。ただの傷、されど傷。お手当ていたしんす」
強めの酒を口に含み、ぷっと吹きかけて、綺麗な手拭いを使って拭いてゆく。当て布をして、くるりと布を強めに巻けば止血くらいは出来るだろう。
「手当てだけでありんす」
「⋯⋯」
京四郎様がこちらを見る。
部屋の灯りは行燈で薄暗いが、月明かりに照らされて、京四郎様のお顔がよく見える。
怖いと思っていた目は、思っているより優しく、二重、切れ長で睫毛も長い。鼻は縦にまっすぐ伸びて高く、唇は薄くすっきり締まっている。
額の傷が無ければとんでもなく美麗な顔立ちではないだろうか? それこそ歌舞伎役者も出来そうなくらい。
しかし私は正直なところ、顔なんざ目と鼻がついてりゃどうでも良い。それよりも気概が良くて優しい殿方が好ましく思われるものだ。
ところがどうだ、この男。その筋肉美は今までに見たこともないほどに美しい。いや、正確に言えば細かな傷は無数にある。あるがそんなものはこの美しさの前に霞んでしまうほどだ。
首筋から鎖骨、肩口にかけての隆起の美しさ。胸板は厚く、その下に細かく割れた腹筋が並び、その太い腕は私の太腿ほどあるのではなかろうか。
こくり、思わず唾を飲んでしまったが、京四郎様に聴こえやしなかっただろうか?
「咲夜⋯⋯お前は変わらないな?」
「えぇ? 何処に目を付けておりんすか?」
「⋯⋯ここに二つ付いているが?」
と言って自分の目を指差した。
「そんな事を言っているのではありんせん。わっちは穢れちまったと言ってるでありんす。この廓の中で、身も、心も、もう京四郎様にお見せ出来るものでは⋯⋯」
「それは俺の目が節穴だと言っているのか?」
「⋯⋯わかりんせん。昔のわっちは忘れちまったので、もう、覚えておりんせん」
「心も体も視えるものではなかろう。俺が視えているのはお前の目だけだ。それ以外は化粧や衣装でわかるわけがない」
「⋯⋯目?」
「そうだ。格子の朝顔たちは皆、男を物色していただろう。だがお前だけは桜や月を見ていたではないか」
「京四郎様⋯⋯ずっと見ておられたので?」
「お前は見られるためにあそこにいたのではないのか? それを見たら悪いと申すか!? 」
「そんな事は言っておりんせん。わっちは見られて恥ずかしい人間になっちまった、と言っているのでありんす」
京四郎の前に立つ。
「京四郎様」
と言って解いた帯を持たせ、くるりと回って見せた。
「どうぞお好きなだけ、この穢れた体を見ておくんなんし」
京四郎様は黙って私の体を見つめる。
「⋯⋯」
襖の向こうや窓の外からも、他人の嬌声などが聴こえてくるが、この男の余裕は何だろう? 大抵の男は体を見せるだけで大喜びで抱きついてくるものだ。それがどうだ、この男、眉一つ動かさない。
まあ、私の体に色がないと言われればそれまでなのだが。
「お気に召しんせんか?」
「気に入らねえ」
「そう⋯⋯でありんすか──」
見窄らしいものを見せてしまった。彼ほどの美形ならば、額の傷ぐらいで見劣りするものではない、それこそ言い寄る女性など引く手数多であろう。
私は恥ずかしくなって、前合わせを重ねようとした、その時。
「──きゃっ!?」
彼は私の手を取り、彼の方へと引き寄せ、私は体制が崩れて彼の懐へと倒れ込んだ。
「す、すいんせん」
「気に入らねえ!」
「ええっ!?」
そう言えば彼は腕に怪我を⋯⋯否、私が握っていたモノは腕などではなかった。
「きゃっ! ご、ごめんなんし⋯⋯てっきり腕だとばかり⋯⋯」
とんでもない。
とんでもないモノがそこにあった。
再び私は唾を飲みこんで、はっとして、彼を見た。目線が絡み合う。
「俺は嫁入り前にこういった事をするのは好かん。だが、ここは吉原。それを言ったら野暮なのはわかっちゃいる。お前の仕事も仕事だと理解している。当然置かれている立場も状況も理解している。そして、俺がもうお前の婚約者ではない事も、理解しちゃいるが──」
「京四郎様⋯⋯?」
彼は至って真剣で、本心でそう言っているのであろう。遊郭に来てこんな野暮なことを⋯⋯だが、それを私に言ってどうしたいのか読めない。
「──その全てが気に入らねえ!!」
「京四郎様⋯⋯」
「咲夜!」
「あぃ」
ぐいっ、とさらに強く私の腰を引き寄せる。
「俺はまだお前のことを好いておる。お前のことを忘れたことなんて一度もない⋯⋯」
──っ!?
「咲夜、お前はどうなんだ!?」
私は⋯⋯。
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