【KAC20254】明け烏の夢

かごのぼっち

花柳三千世界

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 誰かがこの廓から足抜けして娑婆しゃばへ連れ出してくれる、そんな夢だ。


 しかし、娑婆に出てほっかむりを取って顔を見せるところでいつも目が覚めてしまう。

 あれはいったい誰だったのか。何故かモヤモヤするものの、何だか記憶に懐かしい香りがしたものさ。


 煙管に火をつけ、口元を咬む。


「ふぅ⋯⋯」


 紅の滲んだ唇から白いため息が漏れて、曇天の空へと消えてゆく。


 カァ⋯⋯。


 あと何度⋯⋯この明け烏の声を聴けば良いのか、この三千世界を抜ける日は、果たして来るのか。


 自分の色が薄れる前に誰か身請けしてくれれば良いけれど、手練手管の花魁も間夫と添い遂げる事は叶わぬこの花柳界。股が擦りきれるが早いか、命が擦りきれるが早いか。荒菰あらごもに巻かれて浄閑寺に投げ込まれる者も少なからず居るが、自分の想いを遂げると言うのであれば、それも視野に入れなければならない苦界なのさ。


 吉原は兎角狭い。


 お歯黒溝はぐろどぶに囲まれた四角い世界。春になれば大門の見返り柳から水道尻まで、百三十五間の仲之町通りを夜桜千本がずらりと並び、下草に山吹を植えて、青竹で囲む。夜には雪洞の灯りが幻想的に演出する。


 目眩めくるめくほどの春を演出する花魁道中。


 髪は伊達兵庫髷に結い上げ、派手な櫛や簪で飾り付け、抜き襟の衣紋から魅せるうなじ、豪華絢爛なだらり帯に滝糸、緞子や金襴を用いた打掛の裾は、3枚重ねのふき綿で比翼仕立てにして裾引きを華麗に運ぶ。花魁てのは徹頭徹尾粋なのさ。


 そんな花魁に逃げられちゃ困ると、三枚歯の高下駄を履かせるというのだから残酷な話さ。


 花魁に成ったとてそんな扱いなのに、わっちなんざ到底叶わぬ夢物語。


 吉原と言うところは、そりゃあ旦那には夢のような極楽でありましょうよ。されど女には決して逃げることの出来ない生き地獄なのさ。


「ねえ、主さん? わっちを買ってくれなんし」


 今日も煙管に紅をつけてはまがきからそれを渡して男に色を売る女郎たち。


 籬ひとつ。


 極楽と地獄の境界線。あちらには仏が、こちらは餓鬼が住んでいる。


 私は煙管を置いて格子越しに曇天の空を割る薄明かりを見つけた。


 嗚呼、月の光のなんと優しいこと。


 月に夜桜。この吉原ではそれを背にして見世を物色する客の気が知れない。


 そんなに良いものかねえ? 色恋と言うものは。


 ここ吉原に集まる男共は、ほんのひと時の夢に大枚を叩く。女郎の帯は前結び。それは一夜妻を演出するものだ。


 たった一夜。


 男は女郎に恋をする。


 また女郎は女郎でそれぞれ想い人がいるらしい。間夫が出来ればそれこそ命がけだ。

 何人も足抜けを試みたが、成功したものは数少ない。例え成功したとて、社会から追放されるのだ。男は博打、女は夜鷹などして生計を立てなければならない。そこに幸せなどあるものだろうか。

 また追っ手に見つかれば拷問が待っている。火責め水責め当たり前。それを考えれば恋なんてするもんじゃない。

 中にはこの吉原に火付けをして混乱に乗じて足抜けを考えるものも少なからずいたくらいだ。見つかればただでは済まないだろうに、みんな恋に命がけなのさ。

 身請け先が見つかれば儲けもの、あとは年季明けを待つくらいの気持ちでやって行くのが、ちょうど良いってものだろうに⋯⋯。


「はぁ⋯⋯恋なんて⋯⋯」


 と、思っていた矢先。


「──っ!?」


 悪寒がした。


 身の毛もよだつ、殺気にも似た⋯⋯視線?


 見れば格子の向こう、桜の木の下にほっかむりをした男が立っていて、ぎょろりとした大きな目でまっすぐこちらを見ている。


 ⋯⋯え、私?


 嫌だ。


 あんな得体の知れない男としとねを共にするなんて考えたくもない。向こうへ行っとくれ。


 向こうへ⋯⋯。


 私は煙管に火を点ける素振りでそっぽを向いた。


「その煙管、一口くれないだろうか?」


 嗚呼⋯⋯嫌だ、とは言え楼主が見ているのだ。断れない。


 今日はろくな日じゃないね、ったく。


「主さん、吉原は初めてでありんすか?」

「ああ、吉原へは今夜初めて来たよ、咲夜さや?」


 ──っ!?


「わ、わっちの名前は小夜さよでありんす。野暮な事は言わねぇでおくんなんし」

「⋯⋯そうか。ならば、出直して──!?」


 ⋯⋯しまった。私としたことが、咄嗟に男の袖を掴んでしまった。


「──主さん」

「⋯⋯咲夜、なのか?」

「主さんが求めるならば、今宵のわっちは咲夜でありんす。そう、呼んでおくんなんし」


 忘れてしまっていた。


 この男、私の許嫁である。


 いや、許嫁であったと言うべきだろうか。

 うちの家は貧乏農家で、近所でも器量の良いと噂されていた娘の私を、地主・柴田家の息子に嫁がせるつもりで婚約させていたのだ。その相手がこの男、柴田京四郎だ。

 しかし、嫁ぐ前に一冬を越すことが困難となった両親が、柴田家に前借りを要求したが断られた為に、已む無く婚約を破棄して私を女衒に売りつけたのだ。


 だが、それももう何年も前の話だ。


 彼とは幼い時に数度しか会ってはいないので、私も既に忘れてしまっていたが、思い出した。


 この額の傷。


 額に袈裟に斬りつけられた傷跡があり、幼心に怖いと感じたものだった。


 とくん、と心が跳ねた。


 この胸のざわつきが何なのかは解らない。だが、このまま彼を行かせてはいけない、そう思ったのだ。


 地主の息子だろうと、所詮は田舎侍の地主。この吉原では金払いの悪い客はケチと言って嫌われる。そして柴田家が全財産はたいても私の身請け料は払えないだろう。


 だから私は自分の行動が信じられないでいる。

 

 何故、この男の袖を引いてしまったのか。


「ところで主さん?」

「⋯⋯?」


 熱量の解らない目で私を見る。少なくとも他の客のように下卑た目はしていないが、何処か怒気を含むような眼光が空恐そらおそろしくもある。


「この吉原がどう言うところか御存知でありんしょうか?」

「⋯⋯馬鹿にしているのか? 野暮はどっちなんだ?」


 ⋯⋯心配は要らないと言うことなのだろう。別段気に掛ける必要も無いことだっただけに、確かにこちらが野暮であり、無粋な真似をしてしまった。


「ごめんなんし、⋯⋯これは⋯⋯お詫びでありんす」


 京四郎様の手を自分の袖の中へと通してゆく。ゆっくりと⋯⋯自分の懐へ、そしてその先の⋯⋯胸元へ。


「⋯⋯」


 この男⋯⋯顔色ひとつ変えない。


 まるで雲を掴むように、捉えどころがなく、何を考えているのかまるで読めない。


 京四郎様の大きな手が、私の胸を包み込む。私はほんの少し彼に近付いて、声を漏らした。


「ん⋯⋯」


 吉原と言うところは、一見いちげんで床に入ることは叶わない。無論、体を触るなんてずっと先の話だ。つまりこれは彼への心ばかりの謝罪にほかならないのだが。


「おい⋯⋯」

「へぇ」

「⋯⋯二度とこんな真似するんじゃねぇ」

「はい?」


 彼の機嫌を損ねたようだ。


 姉さんたちに教えてもらって、男は誰だって喜んだ⋯⋯なのにこの男の反応はまるで不快だと言っているようだ。


 これまでの男とは違う、そう直感したのはこの時だった。











  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る