【KAC20254】ある一般男子大学生の悲願/彼岸
千艸(ちぐさ)
こんな願いを抱える僕が悪いんだけどさ
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
今朝の面談では8回って言ったけど、数え間違い。
ノートも訂正しておいてくださいね。
可愛い方のライノより。
僕はそうメールを書いて研究室の先輩に宛てて送信した。そしてふう、と溜息をついて、作業用に背を起こしたベッドの上で目を閉じ休憩することにした。
キーボードに手を置いておくのも結構つらくて、左右分割型のものを持ってきてもらっている。本当に動けない時はスマートグラスで入力していたけれど、やっぱりタイピングが一番早い。まだスプーンすらキープできないから、これもリハビリになるだろう。
九年もの植物状態から回復して、確か明日で二週間。体はそうすぐには動けるようにならない。でも、僕の意識と記憶は連続している。どうやらそれは証明できそうだ。
あの夢というのは、僕が雷野クリスとして生きていた頃の記憶を元にした夢のことを指している。この体が持つはずのない記憶だ。夢というものは、言葉として普段意識にのぼる整形された記憶よりも、明確に生々しく自分のものであるはずだった。
僕は、雷野リノは九年前、自殺未遂を起こした。僕が加虐嗜好に振り回されて堕ちていく自分を許せなくなったからだ。その時止めに入った同い年の甥クリスと一緒に歩道橋から転がり落ちて、目が覚めたら、僕とクリスは体が入れ替わっていた。
クリスの彼女や家族にはクリスの中身が僕、リノだってことは打ち明けた。クリスの真似なんて絶対出来ない。誰からも愛されるヒーローになんか、なれっこない。下手を打って傷付けるよりは、最初から諦めてもらった方が良いと思った。その一方で、学校や世間的には、記憶喪失になったクリスとして生きることにした。クリスの名前でこの医学部に入って、クリスの体で研修医になって、元は自分だった『雷野リノ』を研究して、入れ替わりなんていうにわかには信じられない現象を解く手掛かりを探していた。
今、元に戻ったのは機序が判明したからではない。なんというか、魔法。僕の精神が限界になって、夜に病室に忍び込んで、僕の眠り姫とキスをしたんだ。すると次に目覚めた時、僕はこの植物状態だった体に戻っていて、クリスはクリスとしての意識を取り戻したようだった。
元に戻って嬉しい気持ちもある。入れ替わりの原因を突き止められないまま迷宮入りしてしまった恐れもある。でも何より、今の僕は、「これで償える」という安堵に浸っていた。
インカー。僕の彼女。そう思ってしまうのも、僕が九年間クリスとして生きていたからだ。
僕がクリスじゃないと知っているのに、クリスを取り戻すために僕を応援してくれていた。そのうちに多分僕のことも好きになってくれたみたいだけど、僕じゃ相手にならない。
インカーにクリスを返せる。
そしたら僕はお払い箱だ。
もう欲張らない。
次は失敗しない。
二人に邪魔されず、
二人の邪魔にならず、
ちゃんと消えよう。
僕がリハビリを頑張っているのは、二人を完璧に騙すためだった。
──────
「可愛い方のライノ、って自分で言うんだもんなぁ」
午後の面談に来た先輩が笑いながら席に着いた。
「分かりやすいかと思って。クリスに比べて、こっちの僕は儚げで可愛くないですか?」
「クリス君の時は自分の認識がないからイケメンとか言ってるんだと思ってたんだけど、それが素だったか」
「素でどっちも顔が良いと思ってるんで〜」
声はだいぶ出るようになってきた。まだ疲れると読み上げに頼ることもあるが、顔の筋肉がだいぶほぐれてきた気がする。ニヤリとしてみせると、先輩は肩をすくめた。
「整った顔はしてるけど、いかんせん痩せこけてるからなぁ……。早く退院出来るくらいまで体力つけてほしいよ」
「まだ退院しちゃ駄目だから仕方ないっていう」
「退院しちゃ駄目とは言ってないよ、元の家に戻ってクリス君と鉢合わせするのは避けてほしいだけで」
僕らの記憶はどの辺まで混ざっているのか。希少すぎる症例のために、データはいくらあっても足りない状態だ。入れ替わりが元に戻っても、クリスだった頃の僕の記憶がある。クリスと接触したのはあの夜の一度だけだから、その記憶はクリスから教えられたものではないと分かる。でももう一度接触して致命的な会話をしてしまうと、以後の記憶はデータとして使えなくなる。だから先輩も僕も、出来る範囲でいつも通りの会話を続けて、違和感があるかどうかの調査に精を出していた。
「それが無茶なんだよな。インカーもクリスも僕のこと大好きですからね」
「ややこしいことになってるみたいだね〜、と、他人の厄介事はなるべく避けたい俺」
「いやこれもデータなんで、ちゃんと聞いて。役目でしょ」
「壁にでも話してなさいよ」
「わー、名言来た」
「何で知ってるんだ、リメイク版でもやった?」
「FFはXIVから入って遡ってリメイク版全部やりました」
「それはいつ?」
「えーと、大学受かってからかな。なのでクリスの時ですね」
「へえ、まあでもこの辺はネットミームもあるから……好きなGFは?」
「先輩VIII好き過ぎじゃないです? ディアボロスかなぁ」
「うーん、本物の記憶っぽいなぁ……」
先輩がノートをトントンとボールペンで叩く。録画はしているものの、その場で気付いたこと感じたことを記録するのも大切だ。書くことで思考の整理も出来る。
「うん、不思議だ。リノ博士はこの現象、どう考えてる?」
「僕、この体だと博士号無いんじゃなかったのでは?」
「あっても良いはずだと自分でも思ってるくせに」
「あ、ズルいなぁ。そんな言い方するなら先輩も、最速で博士号取り戻すにはどうしたら良いか調べといてくださいよ」
「んー? 何の博士号でもいいならお金で買えるよ」
「それでいいわけないじゃん……。……元々考えてたミラーニューロン説は、ちょっと違いそうです」
「へえ。詳しく教えて」
「僕とクリスは入れ替わる前、結構長い時間を一緒に過ごしていました。だからミラーニューロンがお互いを模倣してもおかしくないと思っていたし、そこにお互いの記憶を無意識にコピーする作用もあるかもしれないと考えていた。
でも、今回の入れ替わり……つまり元に戻った再交代は劇的です。この体はずっと植物状態で、模倣のための活動もほとんど見受けられなかった。僕からの呼び掛けや一方的な会話を覚えているだけならともかく、僕が会話で避けるようにしていた内容なんか、この体が受け取れるわけがない。模倣出来るような親密な接触も、眠っていて不可能なはずだった。
それでもたった一度のキスで、何の問題もなくこうして僕は僕であり続けられている……。少なくとも、従来のミラーニューロンによる学習方法ではあり得ない」
「ほうほう。それじゃあ、何だろうね?」
「ひとつ、考えていることがあります……」
僕は少し疲れを自覚して、チラッと水差しを見遣った。先輩はそれに気付いて何も言う前に僕の喉を潤してくれた。
「……ありがとうございます。
考えているのは、フェロモンによる記憶伝達です」
僕がひと心地ついて持論を伝えると、先輩は目を何度も瞬かせた。思考を巡らせる時の、この人のクセだ。
「ほう……そう来たか。ヒトの嗅覚は随分と退化してしまっているけど……」
「はい。でも、視覚と違って嗅覚は植物状態でも働いている。瀕死や極度の疲労などの強いストレスで発生するフェロモンが、生存のために記憶や意識を伝達するとしたら……。僕とクリスは親戚だから体質が似ることもあるでしょう。お互いにそれを嗅ぎ分けても不思議じゃない」
「……あり得なくはないね。うちの専門分野だけでは追いつかなくなるが……嗅覚か……ふむ。
そういうフェロモンがあったとして、クリス君の記憶、つまり前の宿主のエピソード記憶が使えなかったのはどうしてだろうね?」
「うーん。ただの臆測でしかないんですけど。コピーが書き込まれると同時に、海馬にあった情報は失われないように退避させられているんじゃないですかね。そして、新しい宿主が活性化している間は、それらは眠っている」
「確かに、上書きされても混ざっても嫌だからな……そういう仕組みがあった方が安全だけど……うむう、理屈は通る、が」
「何ひとつ根拠がない」
「そうなんだよねぇ……」
「もう一回死んでみようかな」
「やめなよ、それは医師として許さないよ」
先輩の口調はあくまでフラットだったけれど、視線が僕を射抜き、はっきり僕は逆鱗に触れたのだと知らせてきた。
僕らは研究医だ。ともすれば倫理と欲求の板挟みになってしまう。だからこそ、強く自分を律して先ず医の道の者である自覚を持たねばならないし、その清貧さに誇りを持っている人が多い。先輩もその一人だった。
僕は、自分の本質が、欲望の獣であることを知っている。人倫に
それでも、体を取り戻した、つまり赦された今。僕は再び死によって僕の尊厳を守りたいと考えている。そのついでに仮説を検証できる瀕死データが取れるならラッキー、なんて。
良くない。
背徳的。
倫理観ゼロ。
マッドサイエンティスト。
そうだね。
医者の前で吐露していい言葉じゃなかった。
「スミマセン冗談です」
「大して反省してないでしょ」
「いえ。せっかくこうして皆さんが生きてほしいと繋いでくれた命なので……粗末になんかしちゃ駄目ですよね」
「うん。どんな命でも、だけどね。ちゃんと大切にしてね」
「はい」
でもそれと同時に、どんな命でも、夢を叶えることは許されているんだよ。
「頑張ります」
僕の夢を実現させることを。
僕は儚げに見えないよう、幸せそうに破顔してやった。
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