第56話 日常25 小川冬馬は童貞を捨てた

 カーテンを閉め切った部屋に、その隙間から細い光が射しこんでいる。宙に舞う埃が光の筋を浮かび上がらせ、汗に濡れた彼女の上半身を照らしている。形の良い胸から、くびれたウエストへのラインが、神秘的な美しさで冬馬の眼前にあった。

「おい。なにぼーっと見てんだよ。ソープじゃねえんだぞ」

 胸の上についている頭部からそんな声がする。ハスキーな声だった。

 いい声だな。

 怒ったように激しくなる動きに、必死についていきながら、冬馬はそんなことが妙に感動的に思えて、しかたがなかった。




 カチッ。

 乾いた音とともに一瞬の火が灯り、すぐに白い煙が吐き出される。

 ベッドの上で裸のまま壁にもたれかかった女性が、煙草を口から離し、天井を見上げて言った。

「ホントに童貞かよおまえ」

 女性の目の下には濃いクマがある。冬馬ははじめに彼女を見た時、アイラインかと思った。

「……たぶん」

「たぶんだぁ? ふん。まあ、悪くなかったよ」

「どうも」

 冬馬はその隣で仰向けに寝ている。心地よい疲労が全身を覆っていた。

 終わってみて、こんなものか、という気もするし、やり遂げた、という感動のようなものもあった。

 いきなり街でナンパされた時は驚いたが、すべてはタイミングだった。心に決めたつもりだった、童貞喪失への決意が、憧れていた丘陵研究会部長、音田響花の秘められた想いを知って、砕け散った。そのすぐ後だったのだ。

 しかし、誰でもよかった、というのは少し違う。

 その人は確かに不思議な魅力を持っていたのだ。ショートカットの茶髪に、全身黒と紫のパンクファッション。両耳にピアス。身長は小熊よりも高い、170センチ以上のスラリとした体型。長い首には、鋲が打たれた黒いチョーカー。

 なによりその瞳には、力強い光があった。不健康そうな目の下のクマにもかかわらず、だ。その光に見据えられて、なにかを感じた気がした。

 だから思わず、ナンパに乗ってしまったのだった。

「あの。家の人はまだ大丈夫なんスか」

 冬馬が壁の時計を見て訊ねると、女性は煙で輪っかをつくってから、返事をした。

「ああ。親父が海外に転勤になってな。お袋がついてったんで、今はこの家にオレ一人だ」

 ホテルに行くものだと思っていたら、いきなり家に連れてこられて、冬馬は怖気づくところだった。そういうことだったのか。

「ホテル代浮いてよかったろ」

 笑うその表情がニヒルで、冬馬の好きなタイプの顔だった。

「お前学生だろ。19か?」

「まだ18っス」

 それを聞くと、女性は、「かぁーっ」と言って苦笑いを浮かべた。

「オレ今年28だぜ。一回りも下じゃねえか。こんなガキに手を出しちまうとはなあ」

 そんなに年上には見えなかったので、冬馬は驚いたが、すぐにツッコミを入れた。

「一回りというのは、干支の一回りのことなんで、10歳差じゃなくて、12歳差のことを言うんスよ。それにこういうのは学年で言うんで俺ら9歳差っス」

「ああん?」

 睨んできた。目つきが鋭いので、凄まれると迫力がある。

「お前、オレのことバカっぽいやつと思ったろ。オレだって一応大学は入ったんだぜ。嫌ンなってすぐに辞めたけど」

「今はなにやってるんですか」

「古着屋の店員」

 女性は煙草を灰皿に押し付けると、冬馬の被っていた掛け布団を剥ぎ取った。

「わ。ちょっと」

「休憩終わりだ。今度はもうちょい頑張れよ」

 冬馬の口は煙草の匂いのする口でふさがれた。汗の乾きかけた肌に、冷えた肌が重なり、その感触にゾクリとした。

 ああ、これが女性というものか。

 冬馬はなんとなく実感していた。




「実はさ。お前のこと、知ってたんだよ」

「えっ」

 戦いを終えて、2階の彼女の部屋から1階のリビングに移動した二人は、向かい合ってテーブルについていた。

 彼女の淹れてくれたコーヒーを飲んでいた冬馬は、驚いて目を見開いた。

「小川、冬馬だろ」

 缶ビールを飲みながら、彼女は冬馬を指さした。今はジャージに着替えている。

「前に、駅で七緒と一緒にいるところを見たんだよ。オレがたまに教えに行ってる剣道場の教え子なんだ、音田七緒は」

「七緒と駅で?」

 そうか。片目の道の時だ。何日かあのあたりで張り込んでいたから。

「背ぇ高くて妙に男前だったからさ。七緒に、お前彼氏できたんかって問い詰めたら、違うって言いやがるから。じゃあ、とっていいんかって言ったら、いいってよ。はは。今日たまたま見かけて、つい声かけちまった」

 あっけらかんとそう言って笑う彼女の足元に、大きな猫がすりよってきた。

「お。ぶーちゃん。お客さん珍しいだろ」

 ぶーちゃんと呼ばれた猫は、のたのたとした動きで、冬馬の足にも体を擦り付けていった。

「大きな猫ですね」

「ああ。メインクーンって種類だ。ブマーはオレが中学の時にもらってきた猫だから、もう年だな」

 ゆったりした足取りで去って行く猫を見送りながら、彼女はリビングを見回した。

「昔はいっぱい動物飼ってたんだけどな。ハムスターにインコに九官鳥に。みんないなくなっちまった。こないだ犬のラザルスが死んじまって、今はもうぶーちゃんだけだ」

 しんみりとした口調になった彼女は、二本目のビールを取りに冷蔵庫を開けた。

「ノートン1世ですね」

「あん? なんだって?」

「ブマーとラザルス。アメリカ合衆国の皇帝、ジョシュア・ノートンの飼い犬の名前ですよ」

「アメリカに皇帝なんかいたのかよ」

「まあ、一応」

「親父がつけた名前だからな。今の今まで由来があるなんて知らなかったぞ。お前、学があるな」

「まあ一応」

「調子に乗んな」

 テーブルの下から蹴りを入れられた。

「お前、オレのことバカだと思ってるだろ」

「ははは」

 冬馬は、ビールを呷るその人を見ながら、これから彼女とはどういう関係になるんだろう、ということをぼんやりと考えていた。

 部長の、どこか遠くを見ているような横顔が、脳裏に浮かんだ。部長が、死んだ人の名前を呼んだあの時、感じた痛みが胸に蘇る。まだ痛い。こういう傷口もあるんだな、とどこか他人ごとのように思った。

「言っとくけど」

 ぼうっと見つめていた冬馬に、釘を刺すような口調で彼女は言った。

「オレ、レズ寄りのバイなんだ。もうこれで男はしばらくいいや。だから、付き合えねえぞ。期待させてたら悪りぃけど」

 彼女はあっけらかんとした顔でビールを飲み干した。

「まあそんな気になったら、またヤろうぜ」

 そう言って笑うのだ。

「ははっ」

 フラれた。

 のだろうか。

 冬馬は今日一日で目まぐるしく起こったことに、笑いがこみあげてきた。

 拾いそこなった宝石を見る思いで彼女を見た。ベッドで彼女を見上げている時の、神秘的な曲線が重なって見える。剣道をやっていると聞いて腑に落ちた、あの筋肉質で引き締まった体が。それが女性的で柔らかい部分へと滑らかに繋がる美しい流線形。

「なに見てんだよ」

 彼女が空のビール缶をテーブルに置いた時、なにか血がざわっと騒いだ気がした。

 なんだ?

 ジャージ姿の彼女の全身が一瞬ブレた。

 霊感。

 霊感が働いた。

 冬馬は思わず腰を浮かした。ガガッという椅子の足が立てる音。

 なにかが彼女と重なっている。白いジャージの上を、黒く輝くなにかがうごめている。

「なんだ。どうした」

 本人は首をかしげていた。どう言っていいのか。冬馬はまず深呼吸した。危険な感じはしない。ただ、得体の知れない力の脈動を感じる。

 落ち着いてきた。

 いつの間にか、ジャージの上を動く影のようなものは見えなくなっていた。

「変なやつだな」

「あ、いや」

 冬馬はゆっくりと椅子に座り直した。

 首をかしげたまま、彼女は細い眉を軽く上げて、ぼそりと言った。

「もしかして、お前。見えてるのか?」

 その瞬間だった。

 二人は同時に廊下を見た。なにか聞こえたのだ。話し声のようなものを。

「ピーチ」

 彼女はそうつぶやいて立ち上がった。冬馬も続く。

 廊下へつながるドアの前に立つと、確かになにかが喋っているのが聞こえる。

 この家には今、二人以外だれもいないはずなのに。

「あの。ピーチって?」

「九官鳥」

 短く答えた彼女に、冬馬は息を吐いた。なんだ。鳥か。

「二年前に死んだ」

 ギギッと軋むドアを開けて、暗い廊下に足を踏み入れる。耳を澄ますと、聞こえてきた。

 ギョロロロロロロ。

 鳥だ。たしかに鳥が唸るような声がする。

「来客用の部屋なんだ」

 廊下の途中のドアから、その鳴き声が聞こえていた。彼女がそっとドアを開けると、真っ暗な部屋の奥から、ギョロギョロという癖のあるさえずりが聞こえてくる。

「昔から、ピーチは教えてない言葉を喋ることがあったんだ。ラジオが、電波を受信するみたいに。死んだ今でも、時々」

 彼女が暗闇の中を指さした。広い洋間の奥に目を凝らすと、壁際の棚の上に、布のかかった大きなものが見える。

 鳥かごだ。

 だが生き物の気配はしない。そこから、声が聞こえてくる。それは、いつの間にかヒトの言葉になっていた。



 …………グソウムドイ…………

 …………ユミツカイ…………


 ただ鳥がヒトの言葉を真似ている。ようには思えなかった。冬馬は、ぞわぞわと鳥肌が立つのを感じていた。隣で彼女も息をのんでいる。


 …………ゴシキチズ…………

 …………ヨルノサンポシャ…………


 そっと、その部屋に足を踏み入れる。

(ピーチ)

 彼女がなにかを懇願するそう囁いた。


 …………ネムラヌ、ウオ


 鳥かごの形の布の奥から、その言葉が聞こえた瞬間、彼女の白いジャージが黒く染まった。

 黒く、うごめくものが彼女の中で渦を巻いている。

「鱗?」

 冬馬は思わずうめいた。

 ダッ、と彼女は走り、棚の上の布を取り払った。

 空の鳥かごがそこにあった。埃が舞い、その匂いが冬馬の鼻をついた。

 彼女は空の鳥かごの前で膝をついた。そして自分の肩を両手で抱いて、うつむいた。

「大丈夫ですか」

 冬馬が背中に触れようとしたが、異様な気配がそれを許さなかった。立ち昇るような威圧感。それが、外に向かって流れ出るのを、彼女が必死で防いでいるように見えた。

「大丈夫。たまになるんだ。最近。お前も、見えるんだなこれが」

 震えている。その肩を抱けないことに、冬馬は苛立った。構うか、と思い、手を伸ばそうとするが、そのたびに彼女を覆う黒い鱗のようなものが動くのが見える気がした。

 ギョロギョロギョロ。

 どこからともなくまた鳥のさえずりが聞こえた。二人は暗い天井を見上げた。


 …………ヨニンハ、ダイガ、カワッタ…………


 なにも見えない。そこにいるはずの鳥の幻影を追ったが、なにも見えなかった。

 声は続けた。


 …………オマエモ…………テキト…………ナルカ…………

 …………ルカ…………


 ギョロギョロギョロ。

 口の中でこねるような余韻を残し、声は闇に溶けて消えていった。



 落ち着きを取り戻した彼女からは、いつの間にかあの得体の知れない気配は消えていた。ジャージも白いままだ。

 気恥ずかしい様子で、リビングに戻った彼女は冷蔵庫からビールを取り出して、一息に飲んだ。

「未成年。お前も飲めよ」

 投げられたビールを掴んだ冬馬は、プルトップを開けながら、彼女に初めて声をかけられた時に感じた、不思議な魅力のことを思った。

 彼女の中に眠るなにかを、自分は感じ取っていたのだろうか。だから、彼女の誘いに乗って、この家にやってきたのか。

「お前、霊感あるんだな」

「まあ、一応」

「一応、か」

 彼女は笑った。笑って、手の中のビールを見た。彼女の目の下の黒いクマが、濃くなった気がした。

 それから特段の会話もなく、お互いにビールを飲み終わると、冬馬は彼女の家を出た。

 玄関のドアにもたれかかって腕組みをしたまま、彼女は冬馬を見送った。

 数歩進んでから振り向いた冬馬は、表札をちらりと見ながら、「えーと」となにかを言いかけた。彼女はニヤリと笑うと、眉を上げながら言った。

「まひろだよ。山中まひろ」

 名前を教えてくれた。だから、また会えるだろうか。

 冬馬は、小さく手を振って玄関の中に消えていった女性の残像を瞼の裏に浮かべながら、ゆっくりと歩き出した。

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