月夜に酔う—日本酒バー『宵のしずく』物語
Algo Lighter アルゴライター
第1話 『ひやおろしの約束』
秋の気配が深まる夜、薄紅色の暖簾をくぐると、ほんのりと燗の香りが鼻をくすぐった。カウンターには数人の常連客が静かに杯を傾けている。灯りはやや落とされ、木目の美しいカウンターが柔らかな影を落としている。
「いらっしゃい」
店主の律(りつ)が優しい声で迎える。四十代半ばの穏やかな男性で、長年酒と向き合ってきた手際の良さが自然と滲み出ている。客は律に軽く会釈し、カウンターの端に腰を下ろした。
「今日は何にしましょうか?」
「おすすめをください」
律は小さく頷き、冷蔵庫から一本の瓶を取り出した。
「ひやおろしです。今年の仕上がりは、ほんのり甘さが際立っています。秋の夜にはぴったりですよ」
グラスに注がれた黄金色の酒が、ほのかな光を受けてきらめいた。客はその一口を含み、ゆっくりと喉を通す。深みのある甘さとふんわりとした酸味が、秋の夜にしっとりと寄り添うようだ。
「…美味しいですね」
律は微笑み、少し懐かしそうに話し始めた。
「ひやおろしは、春に搾った新酒を一度火入れして貯蔵し、秋にそのまま出す酒です。ひんやりと熟成されて、角が取れたまろやかさが特徴ですね」
客は頷きながら、ゆっくりとグラスを傾けた。その眼差しには、どこか遠い思い出が揺れている。
「……あの人、元気かな」
ぽつりと呟いた声に、律は言葉を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。
「ひやおろしを初めて飲んだのは、あの人と一緒でした。あの頃は、どんな酒でも美味しくて…」
カウンターに置かれたグラスを見つめる客の目が、少し潤んでいる。律はそっと、もう一杯を注ぎ足した。
「酒が思い出を呼び起こすことはよくあります。でも、過ぎた日々を悔やむために飲むのは寂しいですね。大事なのは、今この瞬間の味わいです」
客は一瞬きょとんとしたが、すぐにふっと笑った。
「そうですね…過ぎた日々も、今の自分も、全部包み込んでくれる味かもしれない」
秋の夜風が窓を揺らし、店内に涼やかな気配が流れ込む。律はカウンター越しにほっとした笑みを浮かべた。
「今夜は、このひやおろしがきっと似合いますよ」
グラスを掲げ、客も微笑んで応じた。静かな夜は続き、秋の味わいが心に沁みていく。
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