家族
@ryoryotarou
第1話
「咲希、ご飯だから降りてらっしゃい。」
母の呼ぶ声がする。
食欲は全くと言っていいほどない。
しかし、このまま降りずにいたらどんな目に遭うことか。
私は重い腰を上げ、ようやく部屋を出た。
私の部屋は二階の廊下の突き当たりにあり、玄関のちょうど真上に位置している。
机の前の窓からは玄関に面した道路が一望できた。
最近はここを通る人たちを無心で眺めている事が多い。
先ほどまでもそうして過ごしていた。
部屋を出ると右手に母と父の寝室、左手に弟の部屋、そして突き当たりに階段がある。
木で作られた階段は古びており、歩く度に軋む。
私はこの音が嫌いだ。
なるべく音が立たないよう、つま先だけでゆっくりと降りていった。
「遅かったわね、お父さんも圭介も食べずに待ってたのよ。」
「…ごめんなさい。」
私は怯えながら席に着いた。
今日の献立はビーフシチューにパンとサラダのようだ。
私は幼い頃からパンが得意じゃない。
だが今は好き嫌いを言うことなどできない。
出された食事を無心で胃に詰め込んでいく。
嗚咽しそうになるのを悟られないよう、水で胃に流し込む。
私にはもう時間が残されていない。
みんなを見捨てなければ、私は…。
…どうしてこんな事になってしまったのだろう。
ママ、パパ、圭ちゃん。
少し前まで、私たちは普通の家族だった。
異変に気付いたのは二ヶ月前、ママが私のことを咲希と呼び始めた時。
その日も私はいつもと変わらぬ日常を送り、学校から帰宅したところだった。
「ただいま。」
「おかえり、咲希。」
「珍しいね、私のこと咲希って呼ぶの。」
「今までずっとさっちゃんだったから変な感じ。」
そう笑って話すとママは真顔で答えた。
「そうだったかしら。」
「もう、冗談やめてよ。何か雰囲気もいつもと違うし怖いって。」
しばらく間が空いたが返事はなく、黙り込んでしまった。
目が合いながらも互いに無言が続く。
初めは冗談かと思った。
しかし冗談にしては少ししつこい。
「ちょっと。ママ本当にどうしたの?」
私の問いかけに一切応じない。
「ねえ、もう笑えないからやめてよ!怖いよ。」
私が思わず声を荒げた時、弟の圭ちゃんも学校から帰ってきた。
「ただいま。外まで声聞こえてきたけど、姉ちゃん何を大声で話してんの?ボリューム抑えなよ。」
「あ、圭ちゃん。ママがね、
「おかえり、圭介。」
私が話しているのを遮って、ママは急に口を開いた。
圭ちゃんのことも、いつもと違って圭介と呼んでいる。
「圭ちゃん、何かママおかしいの。私のことも咲希って呼ぶし、さっきまで急に無言になってたし。」
「なにそれ?具合でも悪いの?」
「ううん、もう大丈夫よ。二人とも気にしないで。」
ママは一言そう言うと台所へ消えて行った。
私は唖然とし、動揺を隠せなかった。
一方で圭ちゃんは心配そうな顔をしていたものの、あまり気に留めていないようだった。
どうしたのだろうか、いつもと全然様子が違う。
ママは、普段はとても温厚で優しい性格の人だ。
私も圭ちゃんもほとんど叱られたことがないほどに。
そのせいか私はママに甘えがちになり、圭ちゃんはわがままで少し生意気なところが目立つ子に育った。
しかし、さっきのママは別人のようだった。
夜になり玄関からパパの帰宅する音が聞こえてきた。
私は夕方からパパをどう呼ぶのかが気になっていた。
いつものママなら下の名前で昭義さんと呼ぶ。
テレビを見ながら、帰ってきたパパとのやりとりに耳を傾けた。
「おかえりなさい、お父さん。」
「ん?…ああ、ただいま。」
「お風呂が沸いてますよ。」
「いつもすまないね。」
下の名前ではなく、お父さんと呼んだ。
パパも一瞬気にした様だけど、それに触れることもなくお風呂へ行った。
私が気にし過ぎなのだろうか。
圭ちゃんやパパのように軽く流すべきだったのかな。
でも急に家族への呼称が変わるなんて。
無言で私を見てきた件もある、一応パパの耳には入れておくべきだ。
風呂上がりに煙草を吸いに庭へ出たパパの後を追い、ママの異変について相談した。
「たしかにお父さんって呼んでたね。珍しいなとは思ったけど。」
「まあ、何気なく呼び方を変えたくなったんじゃない?」
「急に喋らなくなったって話も、きっと疲れか何かでぼーっとしちゃったんだよ。恵子も気にするなって言ってたんでしょ?」
そう私に言い、楽観的に考えていた。
パパはのんびりとした穏やかな性格だが、悪く言えば鈍感だ。
「咲希は心配性な所があるからね。しばらく様子を見て、それでもおかしいようなら僕の方から恵子に話してみるよ。」
煙を口から吐き出しながら、そう告げられた。
私の話を真面目に聞いているのだろうか。
正直あまり腑に落ちないが、一旦様子見ということで丸め込まれてしまった。
家の中に戻るとすでに食卓には料理が並んでいて、ママと圭ちゃんが座って待っていた。
「お父さんも咲希も遅かったわね。圭介ずっと待ってたのよ。」
「いや、待たせてすまない。今日は一本じゃ足りなくて、いつもより吸っちゃってね。咲希に話相手になってもらってたよ。」
「そうだったの。仲良しね。」
パパと話しているのに、ママの視線は私に向いている。
声色は明るいがあまり顔は笑っていない。
思わず目を逸らしてしまった。
上手く言葉にできないが、今日のママはあまり人間らしくない。
まるで機械のような無機質さを感じる。
パパと圭ちゃんは、ママと普通に会話をしながら食事を楽しんでいる。
全部私の気のせいなのだろうか。
ご飯の味すらいつもと違うように感じる。
あの日以来、目立った出来事は特に起きなかった。
だが、私だけが今でも違和感を抱きながら生活している。
気のせいだったでしょ?とパパは言っていたが、とてもそうは思えない。
現にママは相変わらずおかしな状態が続いていた。
様子が変だと指摘したり、詮索をすると急に表情が消え無言になる。
何度も試したが結果は変わらず、いつしか私はそれを避けるようになった。
無機質で人形のようなあの顔は、あまり言いたくないが気味が悪い。
元が笑顔の絶えない人だったから尚更だ。
私が詮索をしないでいれば、表面的に家族としての体を保つことはできた。
これが逃避であることはわかっている。
でも私はあの人と向き合うのが恐かった。
時が過ぎれば図らずも元に戻るかもしれない。
待っていれば、きっと。
その数日後の夜、階下からの声で私は目が覚めた。
この家は木造の一軒家で、中古のため築年数がそこそこ経っている。
普通の会話程度なら聞こえないが、大きめの声を出すと響く。
スマホで時間を確認すると深夜の三時過ぎだった。
こんな時間に一体何をしているのか。
睡眠を邪魔され、少し不機嫌になりながら起き上がる。
部屋の扉を開けるとはっきりと声が聞こえた。
「返事をしろ、恵子!」
パパが声を荒げるなんて只事ではない。
一瞬で目が覚め、心拍数が上がる。
下で何が起きているのかを知るのが恐い。
だけど、私が行ってあげないとパパが。
一階へ恐る恐る降りて行った。
声が聞こえてくるのは和室からだった。
襖は開いており、光が漏れている。
ゆっくりと部屋の中を覗き込んだ。
三面鏡の前に正座するママと、そのママの肩を掴んで安否を確認するパパの後ろ姿がそこにあった。
パパに体を揺らされながらも、ママは鏡に映る自分自身をただ見つめている。
呆気に取られ声をかけることも出来ずに固まっていたが、私は思わず小さく悲鳴を漏らしてしまった。
鏡越しにママと目が合ったのだ。
覗いていることに気付かれた恐怖で私は声を抑えることができなかった。
悲鳴が聞こえたのか、パパも私の存在に気付く。
「咲希!恵子がおかしいんだ。ずっと呼びかけてるのに反応すらしなくて。」
パパがそう言い終えた途端にママが口を開いた。
「あら、お父さん。どうしたんです?怖い顔して。」
「恵子!大丈夫なのか?何度声をかけても反応がないから何事かと思ったじゃないか。」
「そもそもこんな時間に何をしていたんだ。」
「私、なんでここに座ってるのかしら。ごめんなさいねお父さん。それに咲希も。私は平気だからもう寝ましょう?」
口早にそう告げると、三面鏡の扉を手早く閉じて立ち上がり、そのまま私の横を通って二階へ上がって行ってしまった。
その場に残された私とパパは目を見合わせ、共に困惑した。
何が起きているのか全く状況がわからない。
私はパパに何があったのか説明を求めた。
「僕が夜中に目を覚ましたら恵子が隣にいなかったんだ。トイレだと思ったんだけど全然戻ってこなくて。」
「あまりに遅いから心配で一階まで見に来たんだよ。そしたら和室の戸が開いていたんだ。」
「中を見て驚いたよ。恵子が真っ暗の中、蝋燭だけを灯して三面鏡の前に座っててね。」
「何を言ってるのかはわからなかったけど、鏡に向かってブツブツ喋ってた。」
「それでこれはまずいと思って、急いで電気をつけて恵子に話しかけたけど急に黙っちゃって。そこからは何しても応えなかった。」
やはり気のせいではなかった。
私が再三忠告したはずなのに。
「咲希が来てから急に戻ったから良かったけど。やっぱり、恵子おかしいのかもしれない。夢遊病とかなのかな?」
私はパパに対し苛立ちを覚えた。
前に話した時は心配性だからと相手にしなかったし、今度は何?夢遊病?そんなのじゃないってわからないの。
そう言いたい気持ちを抑えて、出かかった言葉を飲み込んだ。
パパに怒っても事態は良い方向に転ばない。
今は一刻も早く元に戻すことを優先しなければ。
「ねえ、病院とかに連れて行った方がいいんじゃない?それかお祓いをしてくれる所とか。」
パパはしばらく考え込んだ後に、私に言った。
「そうだね。」
「明日僕が恵子と二人で話をしてみるよ。」
「必要なら病院にも連れて行くと思う。心配かけてすまないね咲希。」
「咲希も明日学校があるから、今日のところはもう寝なさい。恵子の事は僕がどうにかするから。」
私はパパに促されるまま自室へ戻った。
寝られるはずがない。
さっきのことが頭から離れず、どうしても考えてしまう。
ママは和室で何をしていたのか?
なぜ夜中に鏡を。
しかもパパの話では鏡の自分に何か話していたらしい。
電気もつけず、蝋燭だけを灯して。
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