第52話

 宍戸先輩の言葉は、私のような人間に向けられたものだ。普段、何にも決断せずに、多くの人の判断に流されるばかり。楽しいことは共有させてもらって、嫌なことは誰かに押し付ける。そういう生き方をしてきた私に対する、静かな非難ととれた。


 河野君は、そんな私とは対照的だ。自分が動くべきだという、おそらくそういう使命感から、あの硬直した空気を打破して、ひとり、音楽室を後にした。


 私も見習いたい。


 いや、それじゃだめなんだ。思うだけじゃ、何にも変わらない。昨日の話し合いだって、結局何にも発言せずに、最後に票を投じただけで、議論に参加した気になっていた私。でも、それじゃ、それだけじゃ、だめなんだ。本当に変わるためには、行動に移さないといけない。だから私は――。


「あの、私も行ってきます」


 気づいたら、声を発していた。こんなに大勢の間で、誰かに呼ばれたから返事をしたのではなく、私は、私の意志で、声を出した。そして、私の意志で立ち上がり、河野君の後を追うことにした。


 河野君は音楽教員室の前にいた。けれど、そこからさらに走り始める。おそらく、毛利先生がいなかったんだ。すれ違う人にぶつからないように身をかわす河野君の速さには追いつけなくて、どんどん引き離されていく。


 でも、それでもその背を追いかけたくて、追いつきたくて。


「廊下を走るな!」


 途中、体育の先生の怒鳴り声が聞こえた。だけど、耳に入ってくるだけで私の脚は止まらなかった。


 結局、音楽室から最も遠い場所にある校長室の前まで来てしまった。河野君は軽く肩で息をして、その扉の前で呆然と佇んでいた。


 私が呼吸を整えながら近づくと、河野君はこちらに気がついた。


「越智、来てくれたのか」


 うんとうなずく。


「毛利先生、この中だってよ……5時から6時まで会議らしい。今、4時45分。早すぎるだろ……」


 毛利先生は私の担任だ。もともと時間にルーズな性格なため、大切な会議の前は15分前集合を心がけている。時間にルーズゆえに、時間には厳しくなってしまったと、入学式直後のホームルームで言っていた。すでに校長室にいるということは、5時からの会議は、大切な会議なのだろう。


「ここ入るの、さすがにやばいよな……『生徒入室禁止』って書かれてるし! いやでも、俺、先生呼んでくるって言っちゃったからなぁ……」


 河野君がめずらしく慌てている。そんな様子を見て、私はふっと笑ってしまった。


「ソロを吹く時みたいな緊張感?」

「いやいやいやいや、それとは別だって、これ」


 そうかな? いや、確かにそうだね。ソロを吹く緊張感と比べれば、これは全くの別物。河野君が言うことは、いつだって正しい。


 だったら、大丈夫。だって、ソロを吹くわけじゃないんだから。


 私は、そのままドアノブに手をかけて扉を開き、絨毯が敷き詰められた校長室にたった一人、足を踏み入れた。


 今の私は、今までの私とは違う。君の隣にいるだけで、そう思ったんだ。


 そう、思えたんだ。

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