第13話「理性という仮面」
「……もう、戻れない」
志摩の目に宿っていた“期待”の残滓が、夜明け前の静寂の中で玲司の胸に残っていた。
それは“予感”ではなく、“決定”として沈み込んでいた。
自分は、否応なく、世界の裏側に足を踏み入れたのだ。
ナイト・ケアセンターの人工的な朝は、今日も変わらずやってくる。
外の空がまだ鈍色のまま、施設の照明が白々と輝いていた。
「……おはよう」
紗世の声は柔らかい。でも、その笑みに乗った“温もり”はどこか嘘くさかった。
玲司はそれを見抜いていたが、何も言わずに頷いた。
「体調は?」
「大丈夫。……夢、見なかったから」
「……そうか」
……嘘だ。
彼女が夜中、何度もうなされ、微かに呻いていたのを彼は知っていた。
でも玲司は、その“嘘”を否定しなかった。
それは互いに、理性という仮面をそっと認め合っているようなものだった。
その日、紗世は“安定化訓練”と呼ばれる日中プログラムに初めて参加することになった。
玲司も見学という形で同行する。施設内のホールに集められた十数名の患者たち。
その中に、玲司は“明らかに異質”な少女を見つけた。
「ねぇ、あなた……夜、目が冴えるほう?」
突然、隣に座った少女が話しかけてきた。淡い栗色の髪、艶やかな瞳、どこか底知れぬ気配。
紗世よりも少し年下に見える。
「柚月(ゆづき)って呼ばれてるの。あなたは?」
「……紗世。こちらは、玲司さん」
紗世がやや警戒しながら答えると、柚月は楽しそうに目を細めた。
「ふふ、仲良しさんなのね。……私はα-2型、感応系っていう分類なんだって。最近は細かく分けてるらしいわよ」
玲司の目がわずかに細くなる。
「α-2型……。ウイルスに対する神経反応の分類か?」
柚月は玲司を見て、にんまりと笑った。
「ふぅん。そういう勘のいい人、嫌いじゃないよ。でも、知りすぎると後が辛いわよ?」
「医療系の人間なんでね。ある程度は察しがつく。……君たちは、何かしらの“例外”なんだろ?」
「そう。感染しても、理性が残った……いえ、むしろ“獲得した”って言った方が近いのかも」
「……理性を獲得?」
「ウイルスで壊れた精神を、自分で繋ぎ直したのよ。“仮面”を自分で作って、保ってるの」
柚月の言葉には、どこか達観した響きがあった。
玲司は、彼女が“ただの子ども”ではないと即座に悟っていた。
「……君の仮面は、うまく機能してるように見える」
「今のところはね。壊れるときは一瞬。だから、私は“感応系”としてのバランス訓練を欠かさない」
柚月はさらりとそう言うと、紗世に視線を向けた。
「でも……その子は、まだ知らないのかもね。自分がどこに属してるのか。仮面の意味も」
紗世の指先がわずかに震えた。玲司はその手をそっと握った。
「彼女には俺がいる。……今はそれで充分だ」
その夜。
玲司は自室でぼんやりと天井を見上げていた。背後には、眠る紗世の寝息。
(……理性って、そんなに脆いものなのか)
自分の中に流れる思考の回路は、かつての“医学部生”としての分析と、いま現実に触れている“異常”との狭間で揺れていた。
ふと、背中越しに声が届く。
「玲司さん……起きてる?」
「……うん。眠れなくて」
「わたしも。……今日、あの子に言われて、ちょっと怖くなった」
「柚月?」
「“理性”って……私がいま保ってるそれが、本物かどうか分からなくなるって」
玲司はしばし黙り、紗世の手に指を重ねた。
「本物かどうかは、俺が決める。君が君である限り、それを信じるよ」
その手の温もりは確かに人間のものだった。
少なくとも、いまの玲司には……そう信じる理由が、必要だった。
その頃、施設の地下フロア。
志摩と職員の一人が監視モニターを見つめていた。
「α-2の安定度、上昇中です。次の段階……“視認”を?」
「いや、まだだ。“彼”が現れるまで、全ては伏せておけ」
志摩の視線の先、ガラス越しに並ぶ数体の“個体”。
そのすべてが、まるで同じ顔、同じ動作を繰り返していた。
「理性という仮面か……。だが、同じ仮面をいくつも作れるなら……それはもう“人格”じゃない」
志摩の独り言が、モニターの冷たい光にかき消された。
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