オタ恋観察物語
@husinp
第1話ー開幕ー
風に攫われた小さな桃色の花弁が目の前を通り過ぎようとしていた。着物を身に纏った小柄な女は小走りでそれに追いつくと何となく踊り舞うそれをぱっと両手で包み込む。そっと開けば淡く儚い桜の子が手の上で礼儀正しく座っていた。花の便りに思わず笑みを零す。
少し前までは吐いた息がその場で凍るような寒波に打ち震えていたにも関わらずもうこんなに暖かくなったのだなと目を細める。
野に草花は陽気な日差しに葉を伸ばし、眠りについていた生き物たちは皆凝り固まった体を引きずり獲物を探して野山を駆けるのだろう。
開いた手を結び、止めていた歩を進める。歩く度に馬が闊歩するような音が一人歩く往来に響く。
春風が遠くに咲く菜の花の香りを運んできた。頬を撫でる風がくすぐったい。春の悪戯に一瞬頬が緩むが、それも束の間すぐにそんな気分も落ち込んでしまった。
この固く結われた黒髪を自由にしてしまえば幾分かは気が楽になるだろうに。そう思い触れてみるが梳く事は叶わない。色彩豊かな蜻蛉玉のついた簪や櫛で彩られた髪は風に靡くことは無い。
「…帰りたいなあ。」
空を見上げぽつりと呟いた言葉は何処かに消されてしまった。見上げた空には澄み渡った雲一つない晴天と鳥たちがその空を羽を大きく広げ自由に泳いでいた。何も決める事が出来ない私への当て付けか、それともただ単に嘲笑っているのか。いずれにせよ羨ましいのだ。自由な彼らが。
少し歩いては足を止め、少し歩いては辺りを見渡し、少し歩いては…と時間をいくら掛けようと非情にも約束の場所に辿り着いてしまった。
親の決めた相手と契る事が主流となった今、好いた相手と人生を共に歩むことが出来るなんて夢のまた夢だろう。
そっと目を瞑り、いつかの彼の姿を思い出す。
眼鏡を押し上げる細く靱やかな指先、時折見せる口を大きく開けて作った無邪気な笑顔、少し胸を張って歩く独特な歩き方、最後に見たのは軍服に身を包み駅の中へと消えていった後ろ姿。
いつまでも初恋を引き摺り想いを馳せるのはこれからの人生を共に歩む人に失礼だ。だからこそここでけじめを付けようと口を開いた。
「ずっと、ずっとお慕いしておりました。さようなら、正英先生。」
ずっと胸の内に居座ったくせに言えなかった言葉を春の澄んだ桜舞う青空へと吐き出した。
鼻の奥に刺激が走る。心を鎮めるためにほうっと一息ついた。
「はじめまして、藤子さん。」
突如頭の上から降ってきた声に背筋が震えた。そろそろと振り返るとそこには己よりも一尺上に男の頭があった。逆光で顔が良く見えない。
「これからよろしくお願いします。」
男が手を差し出してきた。皮が分厚く、硬そうなよく日に焼けた大きな手だ。
その手を両手でそっと包み込むと男の顔を見上げる。目を細め、淑やかに口角を上げる。
「こちらこそ、不束者ですがこれからよろしくお願い致します。青治さん。」
軋む音をひた隠し、これまでの自分とは縁を切った。その名の通り淡い藤色の瞳を僅かに揺らしながら青治の背中を追っていった。
今何が起き、これから何が起こるか、明日生きているかも分からない。真っ暗闇を照らすのは太陽か爆撃かの時代に産まれ、結ばれぬ恋をした乙女。
「…照らすのは私だけでいいのに!」
藤子の様子を一通り観察し、その運命に憤慨する女がいた。藤子と変わらないくらいの年齢に見えるが彼女には圧倒的存在感があった。陽光をそのまま閉じ込めたのような長く波打つ蚕糸を思わせる美しい髪と、広がる空を彷彿とさせる青い瞳。そして彼女が纏っている雰囲気がどことなく人間離れしたような、人間では無いかのように感じさせる。
それもそのはず彼女が居るのは雲の上、人の手が届かない孤高の場所。
両頬を大きく膨らませ、拳をぐっと握り締めている。
「アマテラス様は何を怒っているの。」
一人の青年が彼女に話しかけた。
「何もかもに!」
アマテラスと呼ばれた彼女は間髪入れずに青年に噛み付いてかかった。それは神とは程遠く、歯を剥き出しで威嚇をする狂犬さながらである。
「ふうん、聞くと長くなりそうだから聞かないでおく。」
青年は悪戯っぽく笑うがすぐに釘を刺すように据わった目で彼女を見つめる。
「俺達は見守るしか出来ないからね。」
その言葉に彼女は自分の薄桃色の唇をきつく噛み締めた。
「…これは人の子が始めたこと。分かってる。私は手を出さないわ。でも…人の子一人の来世に少し干渉するくらいなら良いでしょう?」
彼女はまだ知らない。藤子という人物の深層を。ぱっと覗き見た一部分から藤子の人生を想像し、勝手に同情してしまった。愛は時に人を狂わす、それをまだ彼女は知ら
「これから先の未来で邂逅させるわよ!あるはずだった学生生活を送らせてやるんだから!」
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