赤縄の契りを貴女と

霜月

1話 契りの誘い

 


 森の奥にひっそりと佇む古びた一軒家。そこが、私の世界のすべてだった。



 気づけば私は、ここでひとりで暮らしていて。親の顔も、名前も、記憶にない。ただ、ひとつだけ確かなものがある。



 ーーあの人だけは、ずっと、傍にいた。




「エマぁ~~~っ!!!」



 コンコンコンコン……それはもう、執念のような勢いで扉を叩く音が響いた。毎朝、きっかり八時に、まるで呪いのように訪れる足音がある。



「オリヴィアっ!! だから毎日来なくていいってば!!!」



 ドアを勢いよく開けた瞬間、金の髪を揺らして、祈るようなポーズでオリヴィアが立っていた。目を輝かせ、指を組み、まるで聖女か何かのように私を見つめてくる。



「えぇ~~? だって私、エマが大好きなんだもん。貴女を森で拾った日からずっと、ずっとずっとずっとずーーっと! お世話してきたんだから。もう、私って聖母じゃない?」



 我が物顔で家に上がり込むその姿に、私は心の中で盛大な溜め息を吐く。



「やっと貴女が十七歳になって、私、嬉しくて嬉しくて嬉しくて……。どれだけ待ったと思ってるの? ふふ。なのにエマは私にこの家から出ていけって……ひどい!! ここ、私の家なのに!!」



 痛いところを突かれ、言い返せず、私は唇を結んだ。



 オリヴィアを追い出したのは、私のわがままだ。もうすぐ十八歳。自立して生きるには、彼女に甘えてばかりいられない。



 まぁ、家を強奪した形にはなっちゃったけど。



「でもいいの。エマが望むなら、それでいい。嫌だけど、嫌だけど、嫌だけど、嫌だけど、嫌だけど」

「全然、よくないじゃん!!!」



 反射的に叫ぶ。オリヴィアの持ってきたカゴから林檎をひとつ取り出して、かじった。しゃり。冷たくて、甘くて、美味しい。



「……これ、全部どうしたの?」

「あ~~っ、一緒に食べようと思ったのにぃ。ふふ。エマが好きかなって思って、いっぱい摘んできたの」

「お母さんかよ……」

「はぁ? それだけは違うって言ってるでしょ」



 ふてくされた顔で睨まれる。オリヴィア、怒ってる。かわいい。いや、違うし、べつにそういう意味じゃないし。



 でも、ほんの少しだけ心臓が跳ねたのは事実だった。



「500歳だっけ? 歳的にはおばあちゃんか」

「違うって言ってるでしょぉおぉおお!!!」

「いったぁあっ!! 林檎投げるなっ!! 今の、めっちゃゴンっていったし!! 痛い痛い痛い~~っ!!」



 頭を抱えてしゃがみこむと、すぐそばに気配を感じた。金の髪が私の頬を擽り、ドキリとする。優しく頭が指先で撫でられるその感触に、思わず瞼を伏せそうになる。



「……ごめんね。痛かった?」

「……うん」



 澄んだ海のような碧眼に見つめられ、逃げ道を失う。小さく、でも不思議な存在感を放つ、耳で光る碧い月のスタッドピアスに、目を奪われた。



 綺麗なピアス。いいなぁ。



 言葉に出せないまま、目を逸らし、床に落ちた林檎を拾い上げる。



「この林檎、どうやって食べる? パイにでもする?」

「パンにのせて焼いて、朝食にしない?」

「……それ、美味しそう!!」



 キッチンに並んで立つ。いつもの何気ない朝のはずなのに、隣の彼女を意識してしまう。林檎の皮を剥く手が、少しだけ震えた。



 横目でオリヴィアを見ると、林檎を掌に転がしながら、香りを確かめていた。金の睫毛が光を受けて、まるで妖精のように見える。



 碧い瞳がふとこちらを向き、目が合う。にっこりと微笑まれた。



「ねぇ、エマ。私と『契り』を交わさない?」



 不意に言葉の重さが空気を変える。指先がぴくりと止まり、剥きかけの林檎が転がった。



「ち、契り……?」



 その言葉が意味するものが、まだ私には掴めなくて。ただ、胸の奥がきゅうと音を立てた気がした。



「うん。貴女ももうすぐ十八歳。私の血族ではね、『契り』を交わすと、相手にすべてを捧げると誓うの。生涯、ただ一人に仕え、命を賭けても契り主を守る」

「……それって、結婚みたいなもの?」

「似てるかもね。でも、もっと深いのよ。意志の交わりで、魂の約束かな」



 ーーオリヴィアと結婚。



 包丁を置いて、私は彼女の横顔を見つめた。契り。結婚。家族。繋がり。どれも私には縁がないものだった。けれど、オリヴィアは違う。



 もしかしたら、私の最初で、最後の人かもしれない。



「……オリヴィアは、なんで私にそんなことを?」



 聞きながら、自分でも分かっていた。だって、オリヴィアは私を愛してくれている。言葉にしなくても、日々の仕草や眼差しがそう、言っていた。



「あはは、困らせちゃったね」



 優しい声が、私の心を撫でる。オリヴィアの指がそっと頬に触れた。撫でるのではなく、祈るような仕草だった。まるで、そこにある想いを伝えるように。



 静かに包丁を手に取ったオリヴィアが、再び林檎を切り始める。トントン、と柔らかい音が響くキッチンで、彼女がぽつりと語り始めた。



「貴女を拾った日ね……あれは、戦争の最中だった」

「……え?」



 知らなかった。その言葉に、一瞬で背筋が冷える。



「私も、戦っていた。魔法を、人を傷つけるために使って。たくさん、殺した。最初は使命だった。でも、気づけば何も感じなくなってて……ある日、森へ逃げ出したの」



 淡々と語る声の中に、深い苦悩の影が揺れていた。オリヴィアの視線がまな板の上の林檎を見つめたまま動かない。



「森の奥で、聞こえたの。小さな、産声が。近づいたら、ゆりかごに寝かされた赤ちゃんがいた」

「……それって、私……?」



 オリヴィアが微笑む。けれどその目は、どこか遠い場所を見ていた。



「ゆりかごの中の貴女が、あまりにも穢れのない美しさだったから、この弓矢のやじりで殺してやろうかと思った」



 オリヴィアは包丁をまな板に突き刺した。



 どすっ。



 鋭い音とともに、心臓が跳ねる。その瞬間、彼女の瞳が氷のように冷たく見えて、呼吸が止まりそうになった。



「でもね……貴女は、私の指を掴んで、笑った。……ねぇ、どう思う? 人を殺してきた手を、何も知らない赤ん坊が、握ったのよ。しかも、嬉しそうに」



 オリヴィアが小さく、笑う。けれどその笑みには、長い孤独と、自分自身への呪いが滲んでいた。



「殺す気なんて、一瞬で吹き飛んだ。何もかも、どうでもよくなって。守らなきゃって思った」



 私は息を呑む。自分が、そんな風に思われていたこと。そんな過去があったこと。何も知らずに、ただの『保護者』だと思っていたオリヴィアの深さを、初めて覗き見た気がした。



「契りを結ぶかどうかは、エマの自由よ。私は、もうとっくに貴女に心を差し出してるから」



 ふふ、と林檎を切る手を止め、オリヴィアが振り返った。その笑顔はどこまでも優しくて、どこまでも悲しかった。



 ーーでも、もう分かってる。



 私の人生には、オリヴィアしかいない。手放したくない。忘れたくない。彼女の過去も痛みも、ぜんぶ抱きしめて、受け止めたい。



 あの碧い月のピアスが光るたび、私はきっとこの気持ちを思い出すのだろう。



 私の胸の内で、静かに、『契り』の火が灯った。




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