第5話 深まる疑念①
翌朝、うっすらと夜明けの光が差し始めた頃、私はいつものように寝台の上で目を覚ました。昨夜はほとんど眠れなかった。父親との冷ややかな面会を経て、屋敷の中のどこにも居場所がないように感じられ、途方もない孤立感が募ってしまったのだ。休んだ気がまるでせず、鈍い頭痛とともに身体を起こす。
目覚めてから小一時間ほどして、侍女がやって来たかと思うと、「本日より家庭教師の先生が戻られます。お嬢様は午前中に書斎へ向かわれるとよろしいかと」と、どこか業務的な口調で告げられた。どうやら、形式上だけは私にも“学習の場”が与えられているらしい。以前からそういう習わしだったのか、それとも当主の命令なのかはわからない。けれど、この屋敷で時間を持て余している私としては、むしろありがたい話のはずだった。少なくとも、誰かと言葉を交わす機会が生まれる――ほんのわずかでも前向きな気持ちを探そうと心に言い聞かせた。
廊下を歩いていると、行き交う使用人たちがささっと横によけるのが見て取れる。まるで私と近い距離を保つことさえ避けたいかのような態度だ。先ほど通りかかった中庭では、園丁が花壇の手入れをしていたが、私が視界に入るや否や、作業を中断して足早に立ち去ってしまった。私を目にした瞬間、驚いたように顔を引きつらせていたのが、遠目でもはっきりわかる。彼はただ慌てて逃げただけかもしれないが、私には“関わりたくない”という意志が明確に伝わってしまう。自分がまるで疫病でも運んでくるかのように扱われているのだと痛感して、胸が締めつけられた。
書斎に向かう途中、廊下の曲がり角で二人の近習が会話しているのが聞こえてきた。彼らは、当主の細かな用事を手伝う立場にあるらしい男性たちだ。私は声をかけようか、あるいは立ち去ろうか迷って足を止める。すると、彼らの低い声でのやり取りが耳に飛び込んできた。
「……あの子が当主様に挨拶したみたいだが、やっぱりあの態度じゃ……」
「そりゃそうだろう。随分前から手を焼かされてきたんだ。ちょっとやそっとで変わるわけないって話さ」
どうやら私のことを話題にしているらしい。私は思わず息を呑み、姿を見られないよう壁の陰に身を寄せた。彼らは私の存在など気にかけていないのだろう、ここぞとばかりに言葉を続ける。
「できるだけ関わりたくないんだよ。少し前に大騒ぎになったこともあっただろう。あれ以来、下手に言葉を交わすのも気が引けるって、みんな言ってる」
「おまけに当主様にも見放されてるようなものだし、こっちが世話をする義理もないしな」
そんな言葉を耳にして、胸が痛む。私は何も知らないのに、どうやら過去の“私”はこの近習たちにも面倒をかけたらしい。確かに当主からも冷たくあしらわれた今、屋敷の人間が率先して私を助けてくれる理由などないのかもしれない。それでも、生きた心地がしないほどの疎外感に苛まれる。彼らの言い分をそのまま受け取れば、私はひどくわがままで、人に迷惑をかけた存在――だからこそ誰からも距離を置かれているのだ。
しばらく二人の会話を聞いたあと、私はどうにかその場を離れた。姿を見られれば、気まずいどころか、きっと彼らもさっと立ち去ってしまうのだろう。逃げるように曲がり角を曲がり、書斎の扉へと急いだ。扉の前で深呼吸をして、胸の高鳴りをどうにか抑えようとするが、冷汗がじっとり背中ににじんでいるのを感じる。結局、私はどこに行っても軽んじられ、避けられているのだ――その事実をいまさら突きつけられるたび、痛みが増していく。
小さくノックをしてから、中へ足を踏み入れる。そこにいたのは痩身の中年女性で、落ち着いた色の衣服をまとっていた。机の上には分厚い書物や紙、インク壺が整然と置かれ、いかにも勉強を始める準備ができているようだ。彼女が私を認めると、ほんのわずかに眉根を寄せるが、そのまま椅子を勧める。
「どうぞ、お座りください」
かろうじて微笑を作ってみせるが、その奥には強い緊張感が見え隠れしている。私も同じように落ち着かない気持ちのまま椅子に腰を下ろした。彼女こそが私の家庭教師なのだろう――明らかに、“仕方なく引き受けている”という態度が伝わるようだった。
「本日から、少しずつ基本の学習を再開していきましょう。しばらくお休みされていたので、前にどこまで学ばれていたのか……ご存知ないかもしれませんね」
淡々とした口調でそう言うと、彼女は手元にある書物を開いて私の方へ向ける。大陸の地理や歴史が記されているらしい、難解そうな内容だ。以前の“私”が何を学んできたのか、私は全く覚えていないし、そもそも学習と呼ばれるものにどう臨めばいいのかすら手探りだ。
「……すみません、本当にわからないんです。まだ戸惑いがあって」
素直にそう打ち明けると、彼女は鼻腔で小さく息をつくようにして本を閉じた。まるで「予想どおり」という反応だ。それは、私を責め立てるというよりは、やはり距離を置く者の態度そのもの。呆れに近い諦めとも感じられた。
「でしたら、基礎の基礎からやり直すしかないでしょう。もっとも、以前も同じようなことをしては途中で投げ出されましたけれど」
最後の一言がぐさりと胸に刺さる。どうやら本当に私は過去に、彼女との学習を放り出すような振る舞いをしたのかもしれない。そのせいで彼女は完全に私を信用していない。目の前には、紙を配ってくれることすら億劫そうに感じさせる態度の家庭教師がいるだけだ。私はぎこちなく微笑み返すが、相手は表情を変えないまま教本を再度開いた。
「よろしいですか。まずは文字の読み書きから確認していきましょう。これくらいは問題ないでしょう?」
そう言いながら差し示されるページには、この世界の文字が並んでいる。しかし奇妙なことに、まったく初見の文字なのに、なぜか私は意味を理解できるような気がしていた。現代の日本語とは違うはずなのに、不思議と読み書きはできるらしい……この身体に染みついた知識なのか、それとも何か別の理屈が働いているのか。自分でも理由がわからないまま、ぎこちなくペンを取って教本をなぞるように文字を記す。
すると彼女は、その字をちらりと見て、小さく舌打ちに似た仕草をした。
「雑ですね……線が震えています。昔はもっと書けたはずですよ。怠けていたから、腕が落ちているのでは?」
その言葉に返す言葉を持たず、私はうつむくしかなかった。怠けていたというのは過去の“私”を指しているのだろうが、今の私には弁解のしようがない。自分でもどうすることもできない記憶の欠落がある以上、もとの能力を発揮できるわけもなく、頑張りたくても何から始めればいいのかわからないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます