幸せな時間をくれたあなたへ
まさ
第1話 始まりの季節
あなたの顔、いつの間にか皺が増えたね。
窪んだ頬に、光るものが流れては落ちてる。
泣かないで。
大丈夫、私は幸せだったから。
あなたと出会ったのは、高校一年生の春だった。
桜の花びらが舞い散る小道を、たくさんの期待とちょっぴりの不安を抱えながら、初めての教室に向かった。
そこでたまたま隣の席になったあなたが、私に声をかけてくれたんだ。
「これ、落としただろ?」
私の机の上に、買ったばかりだった消しゴムを、ぽんっと置いてくれた。
「あ、ありがとう」
これが、私とあなたが交わした、最初の言葉。
「そんなの、覚えていないよ」
あなたはそう言うけれど、私はちゃんと覚えているよ。
どうしてそれが頭の中に残ってくれてたのか、それが分かったのは、もっと後になってからだった。
けれどその時から、何か予感のようなものがあった気がする。
それが当たって、まさか齢50歳を迎えるまで、一緒に過ごすことになるなんてね。
目立たなくて、とっても無口だったあなた。
私もおとなしかったし、男の子と何を喋ったらいいのかなんて分からなくて。
だから、せっかく隣同士の席だったのに、ほとんど話さないままだっけ。
けれど、いつもあなたが照れながらくれる言葉が、私は毎日楽しみだった。
「おはよう」
たったその一言が。
でもそれだけで私は嬉しかったし、学校に行くのが楽しみになったんだ。
ある日の授業中に、あなたは居眠りをしていた。
心配でたまらなかったけど、そんな予感ほど、よく当たるものね。
急に先生に当てられて、あなたは慌てふためいていた。
こっそり答えを教えてあげると、あなたはその通りに声を上げた。
「よし、正解」
先生の一言に、ほっと胸を撫で下した。
その授業の後で、
「さっきは、ありがとうな。く、久保田さん……」
その時、心臓がどっくんと飛び跳ねた。
あなたが、初めて私の名前を呼んでくれたから。
「う、ううん。でも、授業中は、気を付けないとだめだよ、三浦君」
「分かった。気を付けるよ」
初めて三浦君の名前を呼べた。
その日はお風呂の中で勝手に照れちゃって、顔にばしゃばしゃとお湯をかけたっけ。
そんなことがあってから少しずつ、あなたと話すことが増えていった。
「よお~し、じゃあ席替えをするぞ!」
夏の足音が聞こえる教室で、先生がそんなことを言った。
席替えって、くじ引きなんだよな。
三浦君とは離れ離れかな。
せっかく少しだけ、話ができるようになったのに。
できたらまた、近くの席がいいな。
そう願ったけれど、運命の女神様は、私には微笑んでくれなかった。
三浦君とは、遠く離れてしまった。
なんでこんなに、気持ちが落ち込むんだろう。
沈んだ気持ちで俯いていると、乾いた声が聞こえた。
「く、久保田さん」
「は、はい!」
「さよなら。また明日」
私の席の傍を通り抜ける時、三浦君が話しかけてくれたんだ。
「あ、さ、さよなら」
彼がくれた一言は、私の心の中の色を塗り替えるのには、十分だった。
それからはわざと、じっと自分の席に座って、三浦君が傍を通るのを待ったりしたっけ。
彼はまるでそれを見透かしたかのように、いつも私に、短い言葉をくれた。
「久保田さん、えっと、分からないとこがあるから、教えてくれないかな……」
期末試験が近づいたある日、三浦君がそんなことを言ってきた。
「う、うん。いいよ」
無茶苦茶焦ったし、体がガッチガチに固まった。
けど胸の中は、ほんのりと
彼は英語が苦手で、授業の中身が分からなかったみたい。
「ここは受け身形だから、後ろにedが付くんだよ」
「なるほど、そっか」
「英語の松下先生ってさ、いまいち話が分かりにくいんだ。だからいつも、自分で復習してるんだよ」
「そっか。久保田さんは偉いな」
真剣な顔で、メモを取っていた。
見ていて何だか嬉しくて、つい余計なことまで、色々と喋っちゃった。
「俺、法律の仕事がしたいんだ。だから語学は頑張んないと」
そんなことを、不意に言ってくれたっけ。
偉いな、まだ高校一年生なのに、そんなことを考えているんだ。
私なんか、将来何がしたいのかなんて、全然頭になかったのに。
高校を卒業したら大学に行って、どこかの会社に就職して。
そしてだれかと結婚して、可愛い子供が生まれて。
そんな、どこにでもある当たり前のようなことを想っていた。
でも、その当たり前がどれだけ幸せなことなのか、それに気が付くのは、もっとずっと先だった。
夏の林間学校は、みんな楽しみにしていたな。
バスに揺られて、自然がいっぱいのキャンプ場へ行ったっけ。
班ごとに分かれて、晩ご飯を作ることになっていた。
メニューはキャンプ飯の定番、カレーライスだ。
みんなとワイワイ言いながら野菜を切って、グツグツと煮えるお鍋を眺めて。
自分たちで作ったご飯がこんなに美味しいなんて、知らなかった。
楽しかったけど、ちょっぴり寂しくもあって。
三浦君とは別々の班になってしまって、彼は他のみんなと一緒に、ご飯を食べていた。
私もその中にいれたらよかったのにな……そんなことを想った。
今の班のみんなが嫌な訳じゃない、けど……
何だか胸の奥が、キュンと痛かった。
夜にはキャンプファイアがあって、それを囲んで、クラスごとに出し物をする時間だ。
合唱、ダンス、クイズ大会、先生への突撃インタビュー……どれも面白い。
それが終わると、ちょっとしっとりとした曲が流れてきた。
ペアでのダンスタイムだ。
「よおおしみんな、適当にペアを組んで、好きに踊れ!」
そんな声がかかって、あちこちでペアができ上がる。
ほとんどは男の子同士、女の子同士で、ふざけ合っている。
けど中には男の子と女の子のペアもあって、周りからヒューヒューって、冷やかされてて。
どーしよ、このまんま見てよかな。
そんなふうに思ってぼんやりしてたら、
「あ、あの、久保田さん……」
「は、はい!?」
「よかったら、その……一緒に、踊らない……?」
視線を逸らして、不器用なお澄まし顔の三浦君。
「……うん……いいよ」
二人とも踊り方なんて知らないから、滅茶苦茶で。
でも繋いだ手と手の間から熱いものが伝わってきて、体中が火照っている。
心臓がドキドキと音を奏でていて、頭の中がぼーっとする。
熱く燃えるキャンプファイアの灯りの中で浮かぶ三浦君の顔を、まともに見られない。
胸の奥でじんわりと想った。
きっと私、三浦君のことが、好きなんだ……
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