007 保健室

第31話

 世界は今日も目に痛く、頭に響くほどに明瞭だった。

 太陽光は容赦なく網膜を刺激し、風の音は鼓膜を震わせ、肌に触れる空気の冷たさや湿り気まで、過剰に感じ取れる。

 遠くの話し声、通り過ぎる人々の足音、呼吸音、あらゆる感覚が過度に増幅され、脳に直接届くかのようだ。


 視界に入るものの何もかもが驚くほど色鮮やかで、色彩が眼球の奥深くまで突き刺さってくる。

 黄緑と若草色、セルリアンブルーとターコイズブルー。今ならどんな微細な色合いの違いも、異なる色名を名付けることができる。


 その癖、時折輪郭だけが多重に見えることがある。伊達だて眼鏡のせいで視力が低下したのかと思ったが、ランドルト環を使った視力検査では問題がなかった。


 俺は横たわって、天井を見上げている。

 知ってる天井だ。

 つい先日見た景色とまるで同じだ。俺のいる世界は崩壊していなかった。


 元々保健室なんて縁がなかったのに、俺にはもうこのベッドが定位置のような気がしてくる。


 オルタナティ部の部室で、意識が遠のいた。部室にもベッドはあったはずだが、誰かがここまで運んでくれたらしい。

 まさか夢遊病患者のように、自分の足で歩いてここまで来たってことはないよな。


 腕時計もスマホも手元にないので時間がわからない。ひととるるは今頃どうしているんだろう。教室で午後の授業に出ているんだろうか。


 考えても大丈夫なこと、考えてはいけないことの境界線が曖昧になり、混沌こんとんとした思考が暴走し整理できない。


『当たり前でしょ!』


 その予想外の返答が放たれた瞬間が、頭の中で執拗しつように繰り返される。その言葉を引き出した自分の台詞せりふは何だったっけか。


物朗ものろうは、そんなこともわからへんの? はー、信じられへんな。とんでもないにぶちんやな』


 不意に脳内でシーンが切り替わる。にそう言われた、もっともっと以前の記憶。そんなこととは、どんなことだったんだろう。


 いつだって俺は、ひとやるるや――あの子が、なぜわざわざ俺のそばにいてくれるのか理由がわからなかった。自分だけが彼女たちの輝きに見合わない存在のように感じ続けていた。

 比延ひえさんと同じように自分に価値がないと思い込み、居場所を疑っていた。だから俺は、比延さんの自己否定の言葉に腹を立ててしまったのだ。


 ベッドのカーテンが開けられ、曽我井そがい先生の顔が視界に飛び込んできた。

 いつものように白衣を着た先生は、一瞬の鋭い視線で俺を見つめた後、「目が覚めたようやね」と柔らかな口調で声をかけてきた。


「家の方が迎えに来てくれるそうやから、もう少し横になっとき」

「寝てると落ち着かないから起きます」


 ベッドから体を起こし、端に腰掛ける。家の者が迎えに来るって誰のことだろう。今日、両親は家にはいないはず。姉の沙綾さあやさんだろうか。


「転移のストレスがたまってるんやろうな。ゆっくり休んだ方がええよ。新田しんでん、お前は世界崩壊の記憶が残ってるんやからな」


 転移者は皆、前の世界が崩壊する瞬間を経験しているはずだが、不思議なことにその記憶が残っている者はほとんどいないらしい。

 オルタナティ部の部員で言えば、捕殺師という特殊な世界で生きていた箸荷はせがいさんだけだ。


 曽我井先生は椅子に腰掛けると、分厚いファイルに目を落とし、ページをめくり始めた。視線をそのままに、不意に質問を投げかけてきた。


「新田、村雲むらくもさんって知ってるか?」

「村雲てみ……ですか? 覚えています」


 てみの――のことを覚えている。それは間違いない。あの子の姿も、語り口調もすぐに頭に浮かぶ。だが今は記憶を整理できないほど、思考が混乱している。


「そうか。瀬加せか童子山どうじやまが村雲さんの行方を心配しているんだが、どうやら、みのり園にいる可能性がある」


 ひととるるが、てみの居場所を探していたとは知らなかった。だが、友達だから当然のことだろう。

 二人が俺に黙っていたのも無理はない。俺自身、てみの存在を鮮明に思い出せるようになったのは、つい最近のことだ。


「みのり園って……なんなんですか? 箸荷さんの友達も、そこにいるんじゃありませんでしたか?」

「転移者の一部がそこに入所している……としか、私も聞かされていないんよ」


 曽我井先生はそう答えて、軽く肩をすくめて見せた。

 先生の性格を考えたら、こんなポーズを取るということは本当に何も知らないのだろう。


 みのり園とは――どういう施設なのだろう。俺が考えてわかるわけもないが、そこにてみの手掛かりがある――となれば、またてみと再会する日も近いのだろうか。


『物朗はアホやなあ。わたしがいなくなるとでも思ったん?』


 頭の中で、てみが話し掛けてくる。俺は返事の言葉が思い浮かばず、ただ脳内で黙っている。


 ――それから待つこと十数分、沙綾さんが保健室の扉を開けて入ってきた。驚いたことに曽我井先生と姉は、お互いを見るなり手を振り合い、高い歓声の声を上げた。どうやら二人は前から知り合いだったようだ。

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