2056からのリスタート

@U3SGR

第1話 リスタート

 1984年2月7日、午前3時17分。


 東京・代官山。その閑静な住宅街の一角にある総合病院の一室は、張り詰めた空気と、新しい生命の誕生を待ちわびる温かな期待感に包まれていた。分娩室のベッドの上で、星野アリアナは陣痛に耐えている。ハリウッド女優としての華やかなオーラは、この時ばかりは影を潜め、その美しい顔は苦痛に歪み、額には玉のような汗が光っていた。彼女の傍らには、夫である星野大輔が、心配そうにその手を握りしめている。


「アリアナ、大丈夫か? もう少しだ、頑張って…!」


 大輔の声は、緊張と愛情で震えていた。普段は冷静沈着な脚本家も、愛する妻の出産を前に、落ち着きを失っている。彼は、アリアナの希望で、この病院での出産を選んだ。最新の医療設備が整い、万が一の事態にも対応できる、信頼できる病院だ。


 アリアナは、6年前、長女のエミリーをアメリカで出産している。その経験から、今回は、双子ということもあり、特に慎重を期していた。そして、彼女にはもう一つ、この病院を選んだ理由があった。お腹の中にいる二つの新しい命…どこか普通ではない、特別な何かを感じていた。言葉ではうまく説明できない、母親としての直感のようなものだった。だからこそ、確かな医療技術に頼りたかった。


「うぅ…っ!」


 アリアナの鋭い叫び声が、静かな分娩室に響き渡る。陣痛の間隔は、ますます短くなっていた。大輔は、アリアナの汗を、用意していたタオルで優しく拭い、懸命に励まし続ける。


「アリアナ、呼吸を整えて…! そう、上手だ…! 先生の言うことをよく聞いて…」


 医師と助産師たちが、テキパキと動き回り、出産の準備を進める。担当医からは、当時まだ珍しかった無痛分娩も提案されたが、アリアナは、自然な形でのお産を希望した。この日のために、心と体を整え、生まれてくる子供たちの力を信じ、そして何より、母となる自分自身の力を信じて、この瞬間に臨んでいた。大輔も、アリアナのその強い思いを理解し、全面的に支えていた。


「星野さん、もうすぐですよ! いきんで…! いいですか、せーの…!」


 ベテランの医師が、落ち着いた声で指示を出す。アリアナは、医師の言葉に頷き、全身全霊の力を込めて、いきんだ。その瞬間、待ち望んでいた産声が、部屋中に響き渡った。


「おぎゃあ! おぎゃあ!」


 元気な男の子だった。医師が、手際よく赤ちゃんの鼻と口から羊水を吸い出し、体をチェックする。助産師は、温かいタオルで赤ちゃんを優しく包み、体重や身長を測定した。


「おめでとうございます、星野さん! 元気な男の子ですよ! 3250グラム、身長は50.2センチです!」


 大輔は、涙を流しながら、生まれたばかりの我が子を見つめた。小さくて、シワシワで、赤黒くて、それでも力強く泣いている。命の誕生の神秘、そして、自分が父親になったという現実。その全てが、彼の心を揺さぶった。


「アリアナ…、ありがとう…! 本当に、ありがとう…!」


 大輔は、震える声で、精一杯の感謝の言葉を伝えた。


 しかし、出産はまだ終わっていなかった。もう一人の赤ちゃんが、まだアリアナのお腹の中にいる。彼女の表情が、再び苦痛に歪む。


「星野さん、もう一息です! もう一人、頑張って…!」


 医師の励ましの声が、分娩室に響く。大輔は、アリアナの手を強く握りしめ、祈るような気持ちで見守る。「頑張れ、アリアナ…! あと少しだ…!」心の中で、何度も何度も繰り返した。


 そして、数分後。運命の時が訪れる。もう一つの産声が、部屋中に高らかに響き渡った。


「おぎゃあ! おぎゃあ!」


 今度も、男の子だった。医師が赤ちゃんの状態を確認し、助産師が手際よく体を拭き、温かいタオルで包む。


「おめでとうございます! こちらも元気な男の子です! 2980グラム、身長は49.5センチです!」


 大輔は、二人の息子を交互に見つめた。同じ日に、同じ時間に生まれた、双子の兄弟。その奇跡に、彼は再び涙を流した。言葉にならないほどの感動が、彼の全身を包み込む。


 助産師が、優しく声をかけた。


「星野さん、赤ちゃんたちを奥様に見せてあげてください」


 大輔は、はっと我に返り、二人の赤ちゃんを抱いて、アリアナの元へ、連れて行った。アリアナは、涙を流しながら、二人の我が子を見つめた。その瞳には、深い愛情と、そしてどこか懐かしさを感じさせる神秘的な光が宿っている。


アリアナは、かすれた声で、精一杯の言葉を紡いだ。


「この子は、光… 星野光よ…」


「そして、この子は悠…星野悠…」


「…光…そして悠…よく生まれてきてくれたわね…」


 大輔は、二人の息子を胸に抱き、心の中で誓った。この東京・代官山の病院で生まれた息子たち。彼らが健やかに、そして幸せに成長できるように、全力を尽くそうと。ハリウッドで活躍する妻を支え、自身も脚本家として、より一層仕事に励もう。そして、この活気に満ち、未来への希望に溢れるこの時代を、エミリーを含めた家族5人で、力強く生きていこう。そう、強く心に決めた。


 アリアナは、二人の息子の寝顔を見つめながら、静かに祈った。この子たちが、自分自身の人生を、自由に、そして力強く生きていけますように、と。そして、この二人の息子たちと共に過ごす日々が、家族みんなにとって、かけがえのない、幸せなものになりますように、と。


 1984年2月7日。


 星野家に、二つの新しい星が生まれた。


 星野光と、星野悠。


 彼らの物語は、今、まさにこの瞬間から、東京で始まったばかりだ。

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