第147話 忍び寄る影

 マスターEは、ベースキャンプにある住居に軟禁されている。


 長年ダンジョンに携わり、特に『魔王』の手綱を引いた功績は大きい。情報漏洩の嫌疑をかけられているとはいえ、その扱いは丁重だ。


 家の中は常に、上質な酒で満たされている。


 ユスティナが中に入ると、マスターEは上機嫌な声で出迎えた。この生活も、まんざらではないらしい。


「ヘイ嬢ちゃん。新作のカクテルでも飲んでいくかい?」

 ――酒は嗜みませんので。


「人生ってのは、楽しむのが肝心なんだぜ。そんな辛気臭い顔してばっかじゃ、神様だって心配だろうよ」

 ――主は、アルコールの有無で私たちを差別しません。


「そうかい。じゃあ、飲んでも問題はないわけだ」

 ――ノアとは、何者だったのですか。


「おいおい無視かよ。良くないぜ、年上を敬わないってのは……ま、嫌いじゃあねえがな」


 マスターEは目を細める。目の前の少女、ユスティナは『魔王』の後継候補として名前が上がることもある。穏やかな表情の下に隠した、冷酷な殺意。記憶を捨てる以前から、彼女は命に価値を感じていない。だからどんな状況でも、常に最善手を選ぶことができる。


「安心しろよ嬢ちゃん。てめぇらじゃぁ、『魔王』にはなれねえ」


 にたりと、泥のような笑みをマスターEは浮かべた。心の底が冷たくなるような、侮蔑のこもった表情に、ユスティナは顔をしかめる。


 ――なぜです?


「豚に王冠を被せたら王になるか? 王から王冠を剥げば奴隷か?」


 ユスティナは沈黙する。


「王として生まれ育ったた者だけが、王なんだぜ」

 ――そうですか。


 わかりきっていたことだ。

 マスターEは冒険者たちを、その中でも『魔王』を目指す者たちを、心の底から憎んでいる。


 だが、裏切ってはいない。モンスターの討伐に必要な人員を、的確に集めるその手腕は確かなものだ。矛盾するようだが、彼は冒険者たちを育て続けている。愛情を注ぐように、丁寧に。だから彼は信頼され、仕事の斡旋を長年任されてきた。


「好きに生きろよ凡人。自由だけが、俺たちのルールだ」


 マスターEはそう言うと、手元にあったウイスキーのボトルを傾けた。グラスの中に、美しい球体の氷が生成されていく。


 ――失礼します。


 ユスティナは監視の冒険者に一礼して、外に出た。


 マスターEは窓の傍の椅子に座る。空に向かって、グラスを掲げる。


「我らが魔王に、乾杯」


 目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、つい最近ここにやってきた日本人の少年。あのパーティーに一人、人間ではないものが混ざっていた。一色樹。遠くない未来で、彼は『魔王』の選択を知ることになるだろう。


「いいぜ。この一口が最後でいい」


 静かに呟いて、琥珀色の液体を流し込んだ。


 ノアが最後に遺したもの。それは――





 当然のことながら、男女で寝る部屋は分けた。それでも、朝起きてすぐに遥香さんが家にいるという状況には驚愕したし、普通にその場で倒れた。


「なぜ、女神がここに……?」

「樹くん⁉」


 なんてやり取りをしている横で、三弦が部活のために準備をしていたり、六月が眠そうな目をこすっていたりして、脳がバグる。仁奈が朝ごはんの準備をしてくれて、朝食をとって少ししたらリラがやってきて、星奈と星花と三人で女の子が戦うアニメを観始める。


「カオスだね」

「本当に」


「でも、皆すっごく楽しそう。いいなぁ、こういう暮らし」


 たった一年で、一色家は活気あふれる場所になった。父さんが生きていた頃に少し近くて――あの頃に近づけていることが、嬉しい。


「白石さんが一緒に住んでくれたら、もっと楽しくなりますよ」

「仁奈ちゃん⁉」


「仁ぃ奈ぁー。遥香さんを困らせるな」

「だって白石さん、この辺に引っ越そうかなってこの間言ってましたよね?」


 首をかしげる俺。そんなこと、遥香さんが言うわけないだろ。まったく仁奈。いくらなんでも、それはなにかの聞き間違いだろう。


「……言ったけどね」

「言ったんですか⁉」


「この辺に住んだ方が楽しそうだなって、思ったのは事実です……」


 肩をすくめて縮こまる遥香さん。頭を抱える俺。どこかこの近くで、いい物件はないだろうか。遥香さんもデカ家が好きなら、このマンションの空き部屋を探して――。


「でも、まだ一人暮らしはするから。引っ越しも大変だし、ね」

「残念です。ね、樹にぃ」


 こっちに話を振らないでくれ。頼む。


 これ以上ここにいたら危険だ。とにかく仁奈が危ない。今はテレビも見ているが、じきにリラ=スカーレットティアーズという猛獣も解き放たれる。その前にここを脱出しなくては。


「そろそろ行きますか」

「そうだね」


 遥香さんは起きてすぐに支度を済ませていたらしく、すぐに出発できた。三弦は既に部活へ向かっていたので、残りの一色家とリラに見送られる。


 駅まで歩いて、電車に乗る。泊まりの荷物を置くために、遥香さんの最寄り駅で降りる。駅から歩いてすぐのアパートが、遥香さんの家。


 遥香さんって……アパートに住んでるんだ。当たり前のことだろうに、変に驚いた。未だに女神として崇拝していたときの思考が抜けない。


 普通の人なんだ。遥香さんも、俺も。


 持ち物を小さなポーチだけにした遥香さんと、再び電車に乗る。


 ちょうどいい駅まで行って、バスに乗り、しばらく揺れる。道中の話は、主に一色家について。仁奈が入学して最初のテストでいい順位だったことや、三弦が二番手のピッチャーとして定着し始めていること、リラが一色家に溶け込みすぎて驚いた。などについて話していた。


 相談して決めたデートの場所は、水族館。


 かつての俺なら、四桁の入場料にびびって入り口で震えていただろう。だが、今は違う。指定冒険者として実績を積み重ね、預金残高はちょっとよくわからない桁に突入。このくらいの出費なら、口の内側をちょっと噛むだけで払える。


 日曜の水族館は、家族連れとカップルで賑わっている。


 遥香さんは張り切っていて、スマホの画面を見せてくる。


「次のイルカショーは十一時だって。その次は一時になるみたい。間の時間も、他のショーがあるみたいだよ」

「十一時だと……けっこうすぐですね。一時に間に合うようにしましょうか」


「じゃあ、早めにお昼食べたいね」

「ですね」


 順路に沿って歩き始める。大きい水族館だから、回りきる前に昼休憩を挟むことになりそうだ。


 光で照らされた水槽を強調するためか、館内の照明は控えめだ。話し声は聞こえるのに、不思議な静けさに包まれている。


 透明な水の中を、魚は泳ぐ。底の方には、魚の隠れ家になるような土管。水槽の下には丁寧な解説もあって、遥香さんはそこまでじっと読み込んでいる。


「こういう文章あると、気になって読んじゃうんだ。先に行きたかったら言ってね」

「大丈夫です。ゆっくり行きましょう」


 見どころがたくさんあるから、今日一日では満喫しきれないかもしれない。

 また来ればいい。それがいつになるかは、わからないけれど。


 でも、特別展示のところは行っておいた方がいいかもしれない。次も同じものがやっているとは限らないから。


 パンフレットを見ながら考えていたら、後ろから子供の声が聞こえた。


「え~、クラゲ終わっちゃったの?」

「ごめんね。お母さん、去年のと間違えてたみたい」


「ちゃんと見てよ~」

「ごめんね。次はちゃんと、開催時期も見るからね」


「も~」

「でも今はフグがいっぱいいるんだって!」


「フグぅ?」


 不満げに頬を膨らませる子供を、お母さんが引っ張っていく。親子二人の背中が、遠くなっていく。


 その姿から、目が離せない。


「終わりの……時期」


 地面に張り付いた俺の影が、首元まで伸びてくるような心地がした。

 行き詰っていた思考に電流が走ったように、ピースの輪郭が浮き上がってくる。


 優先順位。

 それを決めるのは、物事の重大さだけではない。


「樹くん?」

「いえ、なんでもないです」


 なにかがわかりそうな気がした。手繰り寄せようとしたら、消えてしまう。これ以上はだめだと思って、首を振った。


「しかし熱帯魚って、なんでこんなにカラフルなんでしょうね」

「ね。綺麗だけど、目立っちゃうよね」


 今は魚に集中だ。

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