第107話 融雪
夕飯は部屋から移動して、食事会場で。広い空間に、俺たち用に仕切られた空間。十人が座れるように並べられた机と椅子。年下組を孤立させないようにしながら、適当に席に着く。
食前のジュースと共に、なにやら料理の説明を受ける。すごく難しい。〇〇の〇〇した〇〇焼き。みたいな名前のがずらっと並んでいる。俺には前菜ですら見た目と名前を一致させられないのに、土鍋の下から固形燃料をファイヤーされてしまった。もうおしまいだ。
「美味しいのと、美味しいのと、すごく美味しいのだな。わかったぞ~」
「樹にぃがダメになっちゃってる……」
隣の仁奈に絶望される。ごめん仁奈。お前の兄ちゃんは、美味い以外の情報を処理できないんだ。
「これは、なんて読みますか」
「イワナよ。川魚ね」
オリバーはこんなときでも、日本語への興味を失わない。すごい意欲だ。隣に霧島さんが座っているので、手厚い指導を受けることができるだろう。俺の日本語がオリバーに負ける日は、近い。
「ね、ね、いっくん。これなに?」
「ん~。これは、食べ物」
「樹にぃ!」
トロトロになった思考で六月の質問に答えたら、仁奈が飛び込んできた。
「それは茶碗蒸し。茶碗で蒸すから、茶碗蒸し」
「茶碗蒸し!」
「樹にぃもわかった?」
「わかりました。ありがとうございます」
ほんと、仁奈には頭が上がりません。そっか。茶碗蒸しって、茶碗に入ってるから茶碗蒸しなんだ……。スーパーのプラスチック容器に入っているやつしか見たことないから、ピンとこなかった。まだ蓋したままだし。
開けてみると、確かに同じ見た目だ。黄色いのは卵か。他にもいろいろと具材が入っていて、見た目も華やかだ。
未だファミレスで動揺してしまう俺にとっては、厳しい戦いだ。美味いものがこんなに多種多様に並んでるなんて、なにかがおかしくないか? そうだ。これ、たぶんなにかの罠だ。
まんまと罠にはめられた俺は、必死に箸を動かすことしかできない。
これを冷静に食べられる日は、来るのだろうか。
◇
風呂に入って、食欲も満たすと、じわじわと眠気が強くなってくる。それに抗いながら、部屋でトランプをする。十人は多いから、五人ずつに分かれてババ抜き。単純なゲームなのに、始めると盛り上がるから不思議なものだ。
一番年下の六月が眠くなってきたら、終わり。終わるときはスパッとしていて、誰も不満を言わない。小学生の星奈と星花も、遅くなったら終わるのが当たり前だと思っている。そこもいい集まりだと思う。
女性陣は、三人ずつに割り振った部屋に戻る。星奈と星花は基本的に離れたがらないので、そこにリラを加えた三人。残りの遥香、優子、仁奈がもう一つの部屋だ。
遥香にとっては、試練の部屋割りである。
……だが、露天風呂で言われた通り、優子はこれ以上踏み込むつもりがないみたいだ。九州での出来事を、渋い顔で仁奈に聞かせている。仁奈はそれを前のめりになって聞いている。樹がダンジョンの話を断片的にしかしないので、新鮮で面白いらしい。
会話の輪に混ざっているフリをしながら、遥香はずっとむずむずしていた。
理由はわかっている。
甘えていたのだ。
背中を押してくれる優子に。
パーティーを解散した後も、見ていてほしいと言ってくれる樹に。
いつか消えてしまうかもしれないと怖がりながら、それは仕方のないことだと諦めながら、ほんの少し抵抗することをやめられないまま、与えられる日々に甘えていた。
好きだと認めてしまったら。
いつかそれが原因で、傷つくことになる。
「ちょっと、外出てくるね。飲み物買いたくなっちゃった」
「一人で行ける?」
優子が尋ねてくる。冗談で言っているわけではないようだ。
「馬鹿にしないでよね。迷子になんてならないんだから」
「そ。いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
怪訝な顔をしながら、仁奈も手を振る。遥香は浴衣の上着を着て、外に出た。
遅い時間だから、フロントには誰もいない。静まり返ったロビー。どこでも空いているのに、一番端のソファに腰を下ろす。中庭の日本庭園はぼんやりとライトアップしていて、趣深い。
目を閉じて、心の一番古いところにある傷をそっと撫でる。
――お父さんは、他に大切な人ができちゃったんだよ。
遥香がまだ小学生だった頃、彼女の父親は出ていった。不倫、離婚、テレビでしか聞いたことのない単語が家の中を飛び交う、おかしな時期があった。
不幸中の幸いで、彼女の父は養育費を払ったし、近くには母方の実家があった。祖父母の家に引っ越すと、生活は簡単に立て直すことができた。祖父母はとても優しくて、半年経つ頃には、父親がいないことも気にならなくなっていた。
それなのに。
あのおかしな時期の最中に、母が言っていた言葉が消えない。
大切な人が増えてしまったら、いつか自分は、過去のものになるかもしれない。それだけじゃない。自分だってそうだ。一人大切な人ができたら、一人大切な人を減らしてしまうかもしれない。
祖父母の優しさで、父のことを忘れたように。
アンバランスだ。ほんの少しだけ、合わないバランス。快適な生活に感じてしまう、拭えない違和感。それが遥香をダンジョンへ誘った。
ダンジョンに潜っていれば、常に死の危険が隣り合わせだ。だから、恋はしない。
いい理由だと思ったし、実際、本心でもあった。消えてしまうものを、抱きしめていたくはない。
晴人が死んで――遥香はますます、臆病になった。復讐心を燃やす優子を見て、そんなふうに人を大切にできない自分に、嫌気がさした。
それでも続けたのは、自分なりの抵抗。誰かにとっての大切な人が、死んでしまわないように。心配な初心者に声をかける。
一色樹は、その中の一人にすぎなかった。
それなのに、どうして……こんなにも、心を揺さぶられるのだろう。
視線の先で鯉が泳ぐ。
「白石さん?」
名前を呼ぶ声がした。
振り返ると、浴衣姿の樹が立っている。紺色の上着を羽織って、穏やかな表情をしている。
「なかなか帰ってこないから見て来いって……霧島さんに頼まれたんですけど。なにかあったんですか?」
「優子……」
結局おせっかいな友人の名前を呟いて、遥香は首を横に振る。
「ちょっとね、昔のことを思い出してたんだ」
「じゃあ、お邪魔しちゃいましたね」
「ううん。大丈夫」
手招きする。遥香が座っているソファは、二人掛けだ。
「こっち来て。隣、空いてるから」
「いいんですか? 失礼します」
やや緊張したような面持ちで、樹は腰を下ろす。遠慮しているのか、反対側のひじ掛けに体を寄せている。二人の真ん中には、歪な距離。
「ねえ、樹くん」
「はい」
「大変じゃない?」
「……なにがですか?」
「家族のこととか、パーティーのこととか、いろいろ抱え込んでないかなって」
「――いや。全然」
不思議そうな顔のままで、樹は答える。
「本当? でも、やっぱりこれから人がさ――大切な人が増えていったら、大変になると思うよ」
樹はわずかに視線を泳がせて、庭園を見つめる。月明かりに照らされた横顔を、遥香は見つめる。
「前にも聞かれました。ダンジョンの大先輩に、『家族がいなければ、もっと自由になれると思わないか』って」
樹は目を閉じる。
夏の日に、なにかに縛られて苦しそうだった少年はもういない。全てを受け入れた彼は、そこにあるはずの不自由を楽しんでいるようですらある。
「五人養うのは楽じゃないし、緊張感もありますけど……でも、俺に帰る場所があるのは、家族のおかげです。手の届かない家事をしてくれるし、いいことあったら教えてくれるし、頑張ってる姿を見せてくれるし――」
心の底から幸せそうな顔で、樹は遥香を見た。
「俺はいつも、もらってばっかりです」
全てを捧げて、全てを与えて、それなのにこの少年は、もらっているのは自分だと言う。恵まれているのは自分だと、信じている。
その笑顔に、遥香は胸が苦しくなる。
「大変なんかじゃないですよ」
はっきりと否定して、樹は続ける。
「大切な人が増えるのは、嬉しいです」
「……っ」
幼い頃の遥香が求めていた、聞きたかったのは――
目の前の彼が持っていた、あまりに単純な言葉。
「白石さん?」
滲む視界。名前を呼ばれて、ようやく遥香は目頭を拭う。それでも、温かい涙がとめどなく溢れ出す。
「大丈夫。……なんでもないから。もう、なんでもなくなったから」
ソファの上に置いていた右手に、少し硬く、大きな手がのせられる。痛むところを、そっと撫でるような力加減。そのせいでまた、涙が止まらない。過去の傷が洗い流されて、その上に意味が書き足される。
重ねられた手を、遥香が握る。躊躇いがちに、樹も応じた。
ゆっくりと息を吸う。
ようやく涙が止まって、視界の中を舞うものに気がついた。
「――雪」
大粒の雪が、はらはらと落ちている。勢いは弱い。遠くの空は晴れているから、じきに止んでしまうだろう。
「積もらなそうですね」
「残念。もう春だからね」
「大丈夫ですよ。冬はまた来ますから」
樹の言葉が、ゆっくりと馴染んでいく。
移り変わっていく季節の中で、これから多くのものを得て、失っていくだろう。けれど樹は違う。違っていてほしい。
変わらずにいてほしいと願う。この感情が、恋なのだと思う。
繋いでいた手をほどいて、遥香は立ち上がる。
「そろそろ部屋に戻らないと。樹くんはどうする?」
「俺もそうします。……おやすみなさい」
「おやすみ」
遥香は手を振って部屋に戻り、そのまま布団の上に倒れこんだ。
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