恋するだけでは、終われない

つくばね なごり

第一章

第一話


 その瞬間。

 ヒトの作り出す音がすべて止まると。

 校門から校舎へと続く並木道は、一気に静寂に包まれた。


 風だけがとても遠慮がちに、枝の先をかすかに揺らしてくれて。

 僕はその先にある青い空の中の、ひとすじの飛行機雲に気がついた。


 それから、ゆっくりと視線を目の前に戻すと。

 

 やや物憂げでほんのり潤みがちで、それでいてどこまでも澄んだ紺色のふたつの瞳が。


 ……まっすぐに、僕を見つめていた。



「おはよう、海原うなはらすばるくん」

 控え目ながらも、透き通った声の主はそう告げると。

 青みがかった淡い紫色のカードを、律儀に両手を添えて差し出してくる。

「あとで、読んでもらえるかしら?」

 目的地を見つけたそれは。

 思わずつられて差し出した僕の手のひらの上に、ふわりとやさしく着陸する。


 声の主は、僕の返事を待つことなく優雅に反転すると。そのまま校舎へと戻り始める。

 そのうしろ姿を呆然と見つめながら立ち尽くす僕の前に、突然別の声の主が現れて。

「ちょ、ちょっと月子つきこ!」

 よく通る声でそういうと、僕を見て一瞬なにかを考えるような表情をしたあと。そのまま自らが月子と呼んだ人を、慌てて追いかけはじめる。

 なんというか、その……。


 最悪の言葉を残したまま……。




「……バレー部、よろしくね!」

 スクールバスを降りた瞬間、底抜けに明るい女生徒の声が聞こえてきて。僕は慌てて、足元から視線をあげる。

「いつでも歓迎するぞ」

 あれ?

 あっという間に、声の主は消えていて。目の前は、長身のユニフォーム姿の男子生徒に変わっている。


 高校に入学して一週間。

 校門から続く並木道は、今朝から始まった部活動勧誘週間のため。前に進むのも一苦労するような賑わいをみせている。

「ぜひ、柔道部へ!」

「いや、時代は剣道部だ!」

「あの……。よかったら、文芸部です……」

 僕は、一歩進むごとにまた別のチラシを押し付けられながら。押し寄せる上級生たちの波の中を、なんとか前進する。


 半分ほど進むと、少しだけ人混みが緩和されて。僕は左手を持ち上げ、渡されたチラシをぼんやりと眺め出す。

「読まずに捨てるのは、失礼だろうしなぁ……」

 別に、誰に聞いて欲しいわけでもなくて。

 ……まぁ僕は、そんな性格だ。


「バレー部、よろしくね!」

 先ほど聞こえた明るい声が、もう一度近くでしたかと思うと。

「二回目だね!」

 目の前に白い手が現れ、チラシが上に一枚追加される。

「え……? あっ……」

 ポンと置かれたそれを落としそうになり、慌ててつかんで。

 それから僕は、振り向いたのだけれど。

 その声の主はもう、人混みに紛れてわからなくなっていた。


 続いて校舎のほうが、一瞬ざわめいたあと。なぜか急速に、静まりかえる。

 遠くのほうに、長い黒髪の女生徒の姿が見えて。どうやら彼女の進む道だけが、なぜか一直線に開いていくらしく。そして、すべての音が止まっていく。

 規則正しく歩幅が刻まれ、じわじわと僕との距離が迫ってくるのがわかって。

 あぁ、どうやらこの高校には、まっすぐに突き進む飛行機雲みたいな人がいるんだな。そんなことをぼんやりと考えていた、そのとき。


 近過ぎないが、遠くもない絶妙な距離で。

 その女生徒が、僕の目の前に立ち止まる。


 僕たちの年度から新しい制服が導入されたので、どうやら目の前のこの人は先輩らしい。

「……おはよう、海原昴くん」

 だが、どうしてこの先輩は僕の名前を知っているのだろう?

「……あとで、読んでもらえるかしら?」

 加えて、思わず受け取ったこのカードは……。いったい、なんなのだろう?


 おまけに……。

 少し遅れてやってきたもうひとりの先輩は、どうして僕に謝ったのだろう?


「……ちょっと無理! ごめんねー!」


 ふたりの先輩が、校舎に戻って行くにつれ。開いていた道がやや戸惑いながらも、静かに閉じて。

 ついに、ふたりの姿が見えなくなる。

 ……そして、ふと。

 いや、そこでようやく。僕は気がついた。


 先程までと違って、なぜか自分の周りだけが、ぽっかりと空いている。周囲の生徒たちが、僕から絶妙の距離を保ったまま。ぐるりと円を作って、取り囲んでいる。

 まるで敵地に、ただひとり取り残された者みたいで。

 加えて悲劇の始まりの鐘が。乾いた音で、一度だけ鳴った気がした。


「……うわぁ、なにあれ?」

「あの新入生、速攻振られたの?」

 えっ……?

「しかも陽子ようこにも、『ごめんね』っていわれてたよね……」

「ウソー! ふたり同時に振られたの?」

「いや、三藤みふじさんが怒ってなかった?」

「でも、なにか渡されてなかった?」

「えっ? 返されたの間違いじゃない?」

 い、いったい。ど、どういうことなんだ……。

「どっちにしても、この子さぁ……」

「なんか……。めちゃくちゃイタイよね……」


 耳の中に届く言葉の数々に、僕の理解はついていけない。ただひとつ、はっきりと。

「新入生なのに……。高校生活終わったね……」

 そのセリフが、僕の心に深く刺さった。


 ようやく、この絶望的な状況に気づいた僕は。慌てて周りを見回すと。

 同情というか、あきれというか……。哀れみの目や、冷たい目の上級生たちが山ほどいる。

 おまけに、将来の友人候補であるはずの新入生たちが……。さらに遠巻きに、このようすをうかがっている。


 そう、僕はにぎやかさを忘れてしまった並木道の真ん中で。

 たったひとりで、茫然と立ち尽くしていた……。



 ……カチ、カチ、カチ。

 規則正しいカウントが、虚しく僕の頭の中に響いた、そのとき。背中に硬くて、容赦のない衝撃を受けた。

 要するに、も、ものすごく……。痛い……。

 間違いない、これは新品の制カバンの固い角だ。

 この世の中で、そんなものを僕に遠慮なくぶち当ててくる。そんな奴はアイツしかいない。


 対象を特定した僕が声を上げる前に、聞き慣れた声が覆い被さるようにやってくる。

「海原! 道の真ん中で、ボケっと突っ立ってないでよ!」

 そいつは、肩を少し越えた長さの、先端にややウェーブのかかった栗色の髪の毛に、右手の人差し指を絡ませながら。少しイライラしたようすで、その大きなふたつの目を僕に向けている。

「……って、お前なんでここに?」

「教室行くんだから当たり前でしょ。アンタこそなにしてるの! ほら、早く行くよ!」


 高嶺たかね由衣ゆいは、周囲によく響く大きな声でそういうと。

 強引に僕のブレザーの袖を引っ張り、再度呆気に取られている人々の前から、僕を引き離す。それどころかあえて並木道の中央を。

 わざわざ突っ切るようにして、前に進み出した。




「あの新入生の女の子、なんだかカッコいい」

 ……誰かが、誰かにささやいているのが聞こえるけれど。

 違う、わたしはそんなんじゃない! そんなんじゃないの。

 わたしは心の中で、そう何度も繰り返す。


 わたしはただ、アイツに対する、無遠慮な好奇の視線が許せなかっただけだ。

 さすがに遠すぎて。なにがあったのかまでは、よく見えなかったけれど。わたしの知っているアイツは、入学早々。皆の見せ物になるような奴ではない。

 だからわたしは『友人』として。

 海原昴。アンタを放っておけなかっただけだから!


「……さぁみんな! いつまでも止まってないで。勧誘できる時間まだあるよー!」

 先程まで、アイツが取り囲まれていた場所では。

 三年生を示す色のリボンをつけた先輩が、皆に野次馬をやめて勧誘に戻ろうと声をかけている。

 ああいう人も、ちゃんといるんだ。

 いまは誰だか知らないけれど、ただなんとなく。あの先輩とは、将来仲良くなれる気がした。




 並木道が表向き活気を取り戻したのを確認した、その三年生の女生徒は。

 ひとり心の中で小さくため息をつきながら、先ほどの出来事を振り返る。


 ……まったくもう。

 月子ちゃんも陽子も、やることが滅茶苦茶だよね……。

 でも、『あの』月子ちゃんがこんな大胆なことをするなんて……。いったい、どうしちゃったんだろう?

 あと、あの新入生の男の子はいったい何者なの?

 よくわかならいけれど。このときわたしは、少しだけ。その彼のことが気になった。


 それに、わざわざ乱入してきた新入生の女の子は……。ちょっと面白そう!

「なんだかこの先、色々と楽しくなりそうだよねぇ」

 わたしは、あの四人が消えていった校舎のほうを眺めながら。

「そうなるといいな……」

 小さくつぶやいてから、校門に向かって歩き出した。



 ……そんな『事件』の一部始終を。

 並木道を見渡せる校舎の三階の、大きく開け放った窓でやわらかな風を浴びながら。のんびりと眺めていた人物が、もうひとり。


「うーん。なかなか、エキサイティングな一年がはじるねぇ〜」

 楽しそうな声で、満足げにうなずいたその人は。

 それから青空に向かって、大きく背伸びをすると。軽やかな足取りで階段を降りて、教室へと向かい始めた。




 ……このときの僕は、もちろん。

 この先どんな未来が待ち受けているのかなど、当然知る由もなかった。


 手放せなかった想いや、まっすぐな気持ち。


 正直に打ち明けられなかった秘密や、伝えきれなかった感情。


 どうしても手に入れたくなった、自分の居場所。


 過ごしたかった、あのときと。

 過ごしていきたい、この先を。


 いつまでも忘れられない出来事の数々を、拾い続ける毎日は。

 すべてここから始まった。



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