4 何事も慣れるまでが大変
この歳になって、家族がこうしてひとつ屋根の下で過ごせるとは思いもせず、私は皆が寝静まっている中、ひとりリビングで寛いでいた。
「あら、眠れないの?」
「……お母さん」
ふとリビングのドアが開き、ゆったりとした足取りで母が入って来た。
「私もおトイレで目が覚めちゃったわ」
「何か飲む?」
「いいわねぇ」
私はマグカップを2つ取り出し、ゆず茶を作って母へ手渡した。
「うん、いい香り」
「ゆず茶が好きなのって、お母さんの影響かもしれないね」
「ふふふ、確かに」
静まり返った室内で、しばらく親子水入らずの時間を過ごせることを、私は幸せに思っていた。その反面、自分自身の都合で子どもたちの面倒を、母へ押し付けてしまう事に対して申し訳なさも感じていた。
子どもたちの事、……迷惑かけちゃうなぁ……。
「……迷惑なんて思ってないわよ」
私は母の言葉に驚いた。
「……なんで」
「何年貴女の母親やってると思ってるの。貴女の考えなんてお見通しよ。まったくもぅ……、気に病まなくていいの。……この歳になっても、自分の子どもに頼られるのは嬉しいもんよ」
「……ごめ、この言葉じゃないね。お母さん、ありがとう」
私の言葉に、母は優しい笑みで応えた。
「ところで真、復職先は決めてるの?」
「それなんだけど……。絶賛、悩み中なんだよねぇ」
私は、看護師として己を鍛えるため、看護学校卒業後の就職先には大学病院を選んだ。案の定、新人時代にはこっ酷く叱られ、一時期出勤することが億劫になっていた。だが、日々多くの患者たちと関わり、同期という心強い仲間たちと切磋琢磨してきた結果、辞めずにここまできた。産前産後休暇と育児休暇を最大限利用し、今に至る。
復職するのはいつでもいい、と言われてたけど……。
「何を悩んでるの?」
「うん……。私ね、復職するなら、夜勤だけがいいの。けど、そんな我が儘が通用するのかな、と思って」
「復職の面談で話してみれば?
「……うん」
「何事も試さずに諦めるのは良くないと思うわ」
「お母さん……、そうだね。今度相談してみる」
その後も、ゆず茶を飲みながら他愛のない話をしていた母と私。
同じ母親でも、人生の経験値が違うな、と話しながら実感していた。
例年よりも早く訪れた梅雨――。
降り止まない雨と、梅雨時期独特のじめじめとした湿気が肌にまとわりつく中、私は復職準備のために大学病院を訪れていた。
5月中頃、復職面談のために、私は一度病院を訪れていた。その際、勤務希望について副看護部長へ相談してみた。前向きに検討するとの返事を受けたため、私は夜な夜な転職サイトでの職探しから解放された。復職希望の部署を聞かれ、私はこれまでの経験を踏まえて外科病棟を希望、後日病院から希望通りの部署への配属になったことを聞いていた。
夜勤時に病棟のオリエンテーションを受けるわけにもいかないため、今回こうして日中の呼び出しに応じている。
私の目の前で話をしているのは、大学病院の副看護部長。看護部という組織において、看護部長に次いで2番目の存在。普段はあまりスタッフとの関わりがなさそうではあるが、こうして長期的に休暇を取得しているスタッフのフォロー係として面倒を見てくださる。
「佐伯さん、今は……来栖さんね」
「佐伯で大丈夫です。名札も旧姓で作ってもらう予定ですので」
職場では旧姓で呼ばれていた期間が長く、私的には馴染みがあるため、あえて旧姓での名札をお願いした。
「あらそう。では改めて佐伯さん、これまでどこの病棟で勤務されていたのです?」
「小児外科、消化器外科、泌尿器、救急、腫瘍内科、糖内、免内……です」
「随分と回っておられるのですね」
「そうですね」
「今回、佐伯さんに勤務していただく病棟は、泌尿器科です」
「……はい」
「今から泌尿器科病棟のオリを受けていただくのですが、お時間は大丈夫です?」
「はい、問題ありません」
「わかりました。では、主任看護師に連絡しますね」
「佐伯さん、これから病棟に上がって来てくださいとのことです」
「わかりました」
「オリが終わったら、面倒だとは思うんだけど、また看護部まで戻って来てください」
「はい」
半日かけて、復職面談と病棟オリを終え、正式に現場復帰の日取りが決まった。勤務形態は16時間夜勤のみ、基本的に、土日祝日は休みをもらえることになった。
一応、お母さんとお父さんに連絡しとくか……。
スマホで家族のグループラインへ報告を済ませ、生活用品の買い足しをするため、近くにある大型スーパーへ向かった。
迎えた勤務当日――。
初日ということもあり、私は早めに自宅を出ることにした。
「何かあったら病棟に連絡してね」
「わかったわ」
子どもたちと顔を合わせる時間は短くなり、どこか寂しい気もする……。でも、家庭を守るために私が決めたことなのだから、精一杯頑張ろう。
と、心の中で意気込み自宅を後にした。
更衣室で着替えを済ませ、病棟へと向かう途中で、何人か顔見知りの
……さっきの子、名前なんだったっけな。
勤務していた病棟が多ければ多いほど、人間関係の幅が広く浅いため、名前と顔が一致しないこともしばしある。
スタッフ専用通路から、病棟へと続く廊下の途中にある休憩室へ立ち寄り、荷物整理を行い病棟へと向かった。スタッフステーション内部は、私がいたときとは大きな変わりは見られなかった。お昼過ぎで落ち着いているはずにも関わらず、忙しさを物語るように、人が出払いガラリとしていた。
「……佐伯っちゃん?」
ふと背後から声を掛けられ振り向くと、見知った人物が立っていた。
「
「久しぶり~。佐伯っちゃんが戻って来てくれて嬉しいよ」
加苅師長――。人柄が良く温厚な性格と、お茶目な一面から副看護師長時代にも、多くのスタッフから頼りにされていた人だ。こうしてまた一緒に働けるとは思いもしなかった。
「現場復帰、ありがとうね」
「いえ、これからよろしくお願いします」
「佐伯っちゃんがいたときとは、随分と変わってしまったかもしれないなぁ」
「そうなんですか?」
「……えぇ」
寂しそうとも言うべきか、悲しそうとも言うべきなのか、加苅師長はなんともいえない表情をしていた。
「せっかく早く来て情報を取ろうとしてるところ、邪魔してごめんなさいね」
「いえ……大丈夫です」
私は師長に、どう声を掛けて良いのかわからなかった。だが、来て早々にしゃしゃり出ることはしないでおこうと思い、ホワイトボードに割り振られていた部屋を確認した後、空いているパソコンの前へと座った。
夜勤初日の受け持ち患者は12名。復職したてとは言え、案外スパルタなところがあるのは致し方ない。
看護体制は一般病棟だと7対1のはずなのだが、
夜勤スタッフ3人でこの数かぁ……。なんだか懐かしいな。
夜勤業務開始――。
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