【完結】環状線オフィス

本を書く社畜

第1話:「環状線オフィス」

環状線の電車がホームに滑り込む音が響く。朝のラッシュを避けた昼過ぎ、車内はほどよく空いている。相沢智美はスマートフォンを片手に、いつもの指定席に腰を下ろした。環状線の窓から見える景色はどこか懐かしく、それでいて新鮮だ。彼女はこの場所を「オフィス」と呼んでいる。


ブラック企業で働いていた頃は、毎日が息苦しかった。終わりの見えない残業と上司の叱責、心身ともに疲れ果てた彼女は、ある日突然退職届を出した。周囲の反応は冷ややかだったが、自分の心だけは軽くなった。それからしばらくして、趣味で続けていた料理ブログが注目され、フリーライターとして再出発することになった。


しかし、自宅で仕事をするのは難しかった。両親との会話やペットの猫「ミルク」の世話が絶え間なく続き、集中できる時間が限られる。そんなときふと思いついたのが、この環状線だった。ぐるぐると回り続ける電車の中なら、人々を観察しながら記事を書くこともできるし、適度な孤独感も得られる。


今日も智美はスマホで記事を書き始める。「春野菜を使った簡単レシピ」というテーマだ。カシャカシャと指を動かしながらふと顔を上げると、いつもの女性が目に入った。赤いマフラーを巻いた彼女は、智美がこの環状線オフィスを始めて以来、ほぼ毎日同じ車両に乗っている。


彼女は窓際に座り、小さなノートに何かを書き込んでいる。その姿にはどこか静かな気品があり、智美は密かに気になっていた。「何を書いているんだろう?」そんな疑問が頭をよぎる。


その日の午後、智美は思い切って声をかけてみることにした。「あの……すみません。この電車でよくお見かけしますね。」赤いマフラーの女性は少し驚いた表情で顔を上げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。「そうですね。この環状線には特別な魅力がありますから。」


智美はさらに質問を重ねた。「そのノートには何を書いているんですか?」女性は少し照れくさそうにノートを開き、中身を見せてくれた。そこには短い詩が綴られていた。


「環状線の窓から見える景色

人々の足音と笑顔

回り続けるこの場所で

私は今日も詩を書く」


智美はその詩に心を打たれた。何気ない日常の中にもこんな豊かな感性が隠されていることに驚きを覚えた。「素敵ですね……。」そう言うと女性は微笑んだ。「ありがとうございます。この電車にはいろんな人々の物語があります。それを見るだけでも詩を書くインスピレーションになります。」


その言葉に智美も深く共感した。この環状線という場所には、自分自身だけではなく、多くの人々の日常と非日常が交差している。それこそがこの場所の魅力なのだ。


赤いマフラーの女性との会話から得たインスピレーションで、智美の記事にも自然と温かみが加わった。「春野菜レシピ」だけではなく、「環状線沿いの日常」をテーマにした記事を書いてみようと思う。


電車が次の駅へ向かう間も、智美はスマホ画面に向き合いながら、新しいアイデアを書き留めていく。そしてふと窓越しに見えた景色――それはただの日常だった。しかし、その日常こそが特別なのだと彼女は感じ始めていた。


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