第35話 ダグラス・マッカーサー
「やめてくださいっ!!」
若い女の悲鳴がアトリエにこだました。
0.5秒間静かになったが、また猥雑な騒音が空間を支配した。
その声を発したのはみひろだった。
なんとニシガキの膝の上に座らされ、身体中をまさぐられているのである。
その光景を見たとたん、僕の頭の中は嫌な熱を持ったドライアイスでいっぱいになった。黒い大きなムカデが腹の底を動き回る。
ああ、こんなとき劉備玄徳ならどうするだろうか、剣の舞をするふりをしてニシガキを刺すか、それは項羽と劉邦か。
ニシガキはみひろの上着を脱がせノースリーブの肌着から胸をもまんとしている、小豆洗いなどの側近たちは止めるどころか大喜びしてはしゃいでいる、みなおおかた50を過ぎた男たちなのに。
みひろは顔が蒼白になり少し涙を流していた。
太平洋戦争終結後、マッカーサーが統治者としてこの国を訪れたとき、このようなことを話した。
「日本という国は我々にはおよびもつかない古い歴史を持っているのに、住んでいる人たちはまるで高校生のようだ」
つい僕はしゃべっていた指輪のおばちゃんに話しかけてしまっていた。
「あんなことしてますよ、あれでも偉い先生なんですか?」
「いや、あれは無礼講だがね」
「いいえ、犯罪です」
「くそう、あんな生意気な小娘ばっかり相手して、あたしの相手をしなさいよ!先生!」
地球の同じ空間にいるのに、僕とおばちゃんは見えているものがまるで違っているようだ。
勇気を出せ、俺、はやくみひろを助けにいくんだ。だめだ、なかなか体が動かん。本質的な自信が、そして誇りが、僕にはない、ということをまざまざと知った。
「おとといアイが死んじゃったの」
「アイって?」
「ラブラドールレトリバー」
彼女との会話が脳裏を横切った。
僕は立ち上がった。するとなぜかとなりのおばちゃんまで立ち上がった。
僕は空のビール瓶を何本か倒しながらニシガキの前に向かった。なぜかおばちゃんもついてきた。
僕はやつの前に行くと三つ指をつき、
「では先生、鍋のご用意をいたしますね」
と猫なで声を出し、カセットコンロをふたつ並列に置いた。そしてふたつの鍋に火をかけた。
「みひろさん、エントランスにお父さまとお母さまが迎えに来てますよ」
そう嘘をつくと腕をとり思い切りこちらに抱き寄せた。膝から愛撫する娘をとりあげられたニシガキは、
「あぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
とうなり、鼻にしわをよせている。側近たちはいきなりのことに口を開けていた。
すぐに僕はみひろを抱いたまま外に出た。肌の温かみ、細く芯の強そうな骨の感触が手のひらに伝わり、髪から悲しいような花の香りがした。
「先生の相手は私だぎゃあ!」
指輪のおばちゃんがニシガキの上に座り込んでくれたので、時間を稼ぐことができた。
僕はみひろを1階の事務室につれていった。うなだれて弱っている彼女の小さな背中にそっと手を置き、落ち着くのを待った。
けっこう精神的ダメージを受けたようだ。
すこしすると、
「ちょっと、どけてくれる?」
と、肩を2度ゆらした。背中をさわられていたくないらしい。
手をどけると僕はお湯につけて、しっかり絞ったタオルを彼女に渡した。くびすじなど、なめられたところを拭きたいかなと思って。
「いい」
そう強く短く彼女は断ると、身支度をし始めた。
「帰るの?」
髪の間からのぞく彼女の横顔は青白く、まだ人類がみたことがない月の裏側の光を反射しているようだった。
彼女は音をたてず立ち上がった。
「帰るんなら、送ってくよ」
「だから、いい!」
地母神の怒りがこもった目で僕はにらみつけられた。
なんで俺がにらみつけられなあかんねん。
9月の風のように彼女は立ち去った。
出ていくときに自動ドアが閉まる音がした。
仔犬が息を引きとるときの吐息のような音だった。
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