第27話 聖句

「なにこれ?」


「それってどういう意味?」


 隣を歩くみひろは原稿を受け取りながら、きれいな白目を見せてこちらをにらんだ。僕たちは葉を落としたポプラの並木にそった坂道をくだっていた。

 貸してくれた原稿を返したいと言ったら、日曜の午前中なら空いていると言われたのだ、そしていま二人で歩いている。

 たぶん以前のように夜に会うほど、信用できる相手ではなくなったのかもしれない。


「いや、どうして小説を読ませてくれたのかなって思って」


「あなただって書いてるじゃない、小説」


「書いてないよ」


「てれないで、ミツタカ君に渡してたじゃない」


「あれは卒論の代筆だよ」


「それギャグのつもりだったらやめな、なんか腹立つから」


 みひろはカシミヤのコートを着ていた。歩くたびに垣間見えるストッキングにつつまれた足のかたちが、愛嬌のあるギリシャ彫刻のようだった。

 僕は古いジャンパーと古いジーンズで、取調室からちがう取調室につれていかれるような格好だった。

 耳元で彼女とは血統が違うんだよ、という声がした。ただの服装の違いじゃないかと思いなおし、空を見あげた瞬間、午後の強い太陽の光が頭に降りかかってきた。冬になったばかりなのに春のような光だった。


「小説を書く人なら嘘ばっかりついて生きているっていうのもありかと思ったのよ」


 あれは勢いでたまたまのことだし、嘘ばかりついてないと言い訳しようと思ったが、なぜか言葉がでてこなかった。

 坂を下っていくと鐘の音が聞こえた。教会があった。

 日曜礼拝をしているようで、参列者がちらほらと門から玄関に入っていった。庭にザクロの木が植わっていた。


「こういうのって自由に誰でもはいれるんだよ、ちょっと入ってみない?」


「え、そうなの……でも、勧誘とかあるんじゃない?」


「まともなところならそういうのはないわ、わたし教会がやってる幼稚園いってたから知ってる」


 そう言われたら断る理由はなかった。彼女について玄関から中に入ると細い廊下があり、突き当りのドアを開けると、思ったよりかなり広い空間があった。

 正面に大きなステンドガラスがあり、意匠はマチスの切り絵のようだった。

 そこから入る光に一瞬息をのんだ。

 人は意外と多く高齢者がほとんどだったが、若者、子供もちらほらいた。僕たちは最後尾の長椅子に座った。


「こういう儀式みたいのに参加するのは何年ぶりだろう」


「ミサっていうのよ、もともとはユダヤ教の集団礼拝からきてるんだけど、中世じゃラテン語で書いてある聖書をみんな読めないから、神父がここで読んであげてたわけ、教会によってはかなり面白い、というか良いミサもあるの、ここはどうだろうなあ」


 みひろが話し終えると同時に、牧師と思われる黒衣初老の男性が、さほど高くない演壇に登った。

 私語がやみ静寂になる。

 ミサは流れが決まっているようで、まずはじめに皆で歌を歌うという、僕はなんだかうれしくなった。

 Aメロがラテン語でサビがスキャットの定番のグロリアスと、雪輝く冬をその友は生きたという歌詞で始まるメロウなバラードを歌った。

 次は聖書の朗読と解説で、牧師さんは山上の垂訓という場面を選んだ。


 心の貧しい人たちは幸いである 天国は彼らのものである


 悲しんでいる人たちは幸いである 彼らはなぐさめられるだろう


 あわれみ深い人たちは幸いである 彼らはあわれみを受けるだろう


 これら聖書の言葉を朗読したあと、牧師さんは話しだした。


「山上の垂訓の第1項は、心の貧しい人が幸いであると説いていますが、なんだか心の貧しい人って希望を持ってない人をイメージしがちですよね、これじつは誤訳なんです。本来はやさしい人、柔和な人、または謙虚な人と訳されねばいけません。ギリシャ語の原語であるアナウィムという言葉は、貧しいという意味以外に、柔和な、やさしい、謙虚な、虐げられた、という意味ももつのです」


 柔和で、やさしくて、謙虚で、虐げられてるって、僕のことだよなあ、なあ、みひろ、と小声で話しかけると、ちゃっ、と舌打ちされた。


 中天にのぼった太陽の光が、ステンドガラスごしに僕たちを照らした。淡い3原色に染まったその光は喜びでも悲しみでもなく、つよい望郷の念を僕に与えた。

 それは俗世の実家に帰りたい感情ではなく、生まれてくる前の世界を思い出すような感覚だった。


「私たちは自由です。なにをしてもいいのです。どう生きてもいいのです。ただそこにイエスの愛があるならば」


 その言葉を最後にミサは終わった。

 この国を大きな監獄と感じている僕は現実を、生まれた環境9、努力1と考えているので、何をして生きていってもいいけど、それが大変で、と情けないことを感じた。ただ、心に動かぬ信念を持つことをうらやましいと思った。


「なかなかいいミサだったわ」


 教会を出てポプラの並木がある坂道をくだりながら、みひろはそういった。そうだね、またいっしょにいこうよと言いたかったが、言葉がでなかった。


「じゃあ、あたしこれから学校行くから、院でも講義あるのよ」


「あの……、君の小説だけど」


「なあに?」


「僕ああいうの好きだよ」


「………ありがと、良太さんもまた書いたら読ませてね」


 去っていく彼女の髪が風になびき光を反射した。冬の空を見あげるとぶ厚い雲が、音をたてて動いていた。


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