夢中のレヴァム

舟渡あさひ

さいしょの夢

第1話

 夜寝て最初に目に入ったのは、彼女の長い藍白の髪だった。


「おやすみ。ここ借りているよ」


 彼女は部屋に一つしかない椅子の背もたれにおもいきり体重を預け、手元の本に視線を落としながら、鈴の転がるような声でそう言った。


 周りを見渡せば、そこはとても見慣れた部屋だった。なんせ僕はずっと一人、この部屋で暮らしているのだ。


 部屋を囲むように並び立つ、天井に届かんばかりの本棚達も。そこに隙間なく並べられた本たちも。彼女が腰掛ける椅子もその前の机も。何もかもが僕の仕事道具だ。


 見慣れないのは、彼女だけ。


「いや、誰」


 自分の部屋に見知らぬ者がいて警戒しない人がいるはずもなく。僕も例外なく、滲む手汗を握りしめながら彼女を見据えていた。


 最も僕の場合、それだけが理由ではないけれど。


「まあまず座りなよ」


「この部屋の椅子は、君が腰掛けるその一つきりだよ」


「おっと、それは失礼」


 彼女はパタリと手元の本を閉じてから僅かに腰を浮かし、なにか逡巡するように虚空を見つめて停止する。かと思えば、もう一度深く腰掛け直した。


「私の名前はレヴァム」


「いや椅子返せよ」


「私の名前はレヴァム」


 にっこりと、深い笑みを湛えた顔でこちらの申し立てを完全に無視し、二度同じ名乗りを繰り出してきた。


 なんだこいつ。


「はぁ……呼びづらいね。レヴでいい?」


「いきなり愛称呼びとは、さては君、距離を詰めるのが下手な子だね?」


「ほっとけ」


 なんだか余計な指摘を受けてしまったが、不審者に対して遠慮してやる道理はない。それだけだ。

 憮然とした態度でいる僕に、彼女はしたり顔で畳み掛ける。


「それより君は? 普通名乗られたら名乗り返すものだと思うけど?」


 先程から完全に主導権を握られてしまっているのでどこかで取り返したいところだけど、正直まだ頭が混乱している。適当に名乗り返す間に考えを整理することにしよう。


 ため息を一つつき、名前だけをポツリと返す。


「ソロア」


「ふぅん? じゃあソラだ」


「さっき距離がどうとか言ってたのは誰だった?」


 思わず突っ込んでしまった。考えを整理する間もなく余計なやり取りばかりを強いられる。もどかしい。「しかえし」とくすくす笑う顔が腹立たしい。本当に何なんだこの女は。


「それより、君はいつ、どうやってこの部屋に入ってきたの」


 今度こそは僕の疑問を解消する番だ、と彼女に聞けば、やはり彼女は意味深な笑みを浮かべたまま何気なく答える。


「今朝、普通にドアを開けて」


「どっちの」


 この部屋にあるドアは二つ。中央に置かれた机を挟んで向かい合うように設置されていて、一つは悠々と座り続ける彼女の背後。もう一つは、彼女と向き合う僕の背後。


 彼女の背後にある方の扉の先は、僕の生活圏。あるのは簡素な寝室とバスルームだけ。


 僕の背後にある方は、外へと通じる扉。扉の中央には大きめの郵便受けが設置されていて、扉横には洗濯物や食事をやり取りするための窓とカウンターテーブルのようなものがある。


 まあこちらだろう、と思っていた。


「どっちでもないよ」


 背後の扉に向けようとしていた視線が、その言葉で彼女に引き戻された。


「は?」


「どっちでもないよ。私が入ってきた扉は消えちゃた」


 本格的にヤバい人かもしれない。戦慄する僕を、彼女は愉快そうに眺めている。


 聞きたいことを聞いたら分からないことが増えるってなんだ。どうすればいいんだ。


「随分困惑しているね。そんな君にもう一つ朗報だ。私は今朝ここに入ってきたと言ったけど、君が仕事をしている間も、私はここに腰掛けていたよ」


「そんなはずはない」


 彼女がギイギイと音を立てて左右に揺らしているあの椅子は、日中は僕が仕事のために使用していた。


 こっそり入ってきて隠れていたのでなければ説明がつかない。


「そんなこともあるよ。むしろ日中は、君がここに居なかったんだよ」


「いや、僕はちゃんとそこで仕事を」


「そう。ちゃんと仕事をしていた。だから君はここに居なかったんだ」


 話を遮られ、さらにとんちのような情報を注ぎ込まれ。混乱する僕に、最大のヒントとばかりに彼女は問いかける。


「ねえソラ。君が私と出会う前、最後にとった行動は何だった?」


 覚えていない訳ではなかった。ただ、記憶が少し飛んでしまっているのだと思っていた。だってあまりにも脈絡がなかったから。


 僕は、彼女と出会う前に、ベッドに潜り眠りについた。意識を手放して、気がついたらここに――――。


「私の特性は〝夢〟なんだ。そしてもう気づいているだろうけど、ここは君の夢の中だよ」


 その言葉を皮切りに、次第に景色が遠のいていく。


「あれ、もう朝? 今日の夢は短かったね。ああ、一個だけ聞き忘れてた! ちょっ、ちょっと待って!」


 それまでの余裕が嘘のように彼女が焦りだす。待てと言われても待ち方もわからず、遠のく意識の向こうから、かろうじて一言だけ、彼女の声が聞き取れた。


「私! しばらくここに居ていい!?」






 朝起きて最初に目に入ったのは、いつも通りの見慣れた天井だった。


 見渡せばそこも僕の部屋。夢の中で彼女の背後にあった扉の先の、ベッド一つしか置かれていない寝室。


 起こした上体は汗に濡れ、背中にびっしりシャツが張り付く。


 面と向かって、と表現していいものかよくわからないけど、まともに人と会話したのは、随分久しぶりのことだった。


 こうして僕は彼女と出会った。そして毎夜のように、夢の中で彼女と他愛のない会話を繰り返す、そんな日々を。


 僕はこの日から、一年生きた。

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