第21話
小さなホールでつまらない演奏を聴きながら、セレナは隣から漂う甘い砂糖とバターの香りを感じていた。
ルナ・アーシアは大量に盛り付けたあの菓子たちをすべて胃に収め、追加のものまで包んで部屋に届けさせていた。これを部屋に、と託された下女も戸惑うほどの量である。結局、セレナが食べきれなかった分まで食べていたし、胃の作りがセレナとは違うのだろうと、勝手に結論づけて自分を納得させた。
そんな彼女から、まだ焼き菓子の甘い残り香が漂ってくる。
可愛らしさよりも美しさが目立つこのひとにはどこか似合わない、かわいい香り。そんな香りを纏いながら、ルナ・アーシアは楽団が奏でる穏やかな音に聴き入っている。
セレナは少し退屈だった。
皇妃たちが手配した楽団はどれも格式ばった音楽ばかりを奏で、どれも特に代わり映えしない。普段入ることのない皇宮の内部を見学できるのは嬉しいが、似たような音楽ばかりを聴かされても退屈なばかりである。
長兄がアンジア祭で呼ぶ楽団は、今思えばとても庶民的だった。異国の踊り子がいたときもある。セレナや、まだ幼かった弟を飽きさせないための工夫だったのかもしれない。
ルナ・アーシアの身体がこちらに少し傾いて、内緒話をするように耳元に口を寄せる。だからセレナも、言葉を聞き逃さないように少し顎をあげて耳を預けた。
「あきました」
「……ふ、ふふ」
「だって、さっきと同じ曲ですよ」
耳にかかる息がくすぐったい。甘い香り。
真剣な顔でちゃんと聴いていると思っていたのに。
この楽団は第二十六皇妃が呼んだものだったか。ここに来る前に足を運んだホールでも、たしかに同じ曲を演奏していた。違う楽団であれば演奏も別物となる。が、皇宮で演奏しているからか、どちらも型通りで面白味のない演奏であった。奏者たちの緊張まで音に乗っている。
ぐっと身体を近づけて、ルナ・アーシアの耳元に唇を寄せる。薄暗いホールのせいで目測を誤り、唇が少し耳たぶに触れてしまったことはたぶん気づかれていない。
「そもそも、この曲ながいのよ」
そう、この曲は長い。すべて演奏すると軽く半日はかかる。ひとの一生がテーマになっているのだが、第一章から第百八章までに別れており、もっとも有名なのは第十五章から第二十章だ。演奏会では主に、この第十五章から第二十章が選ばれる。
いまは珍しいことに第三十章あたりを演奏している。
「ずっと同じ繰り返しにしか聴こえません」
「さっきの楽団が演奏していたのは第二十章よ。これは第三十章」
「私の学がないからといって騙されたりしませんよ。ぜったいに同じところの繰り返しです」
ルナ・アーシアの言葉に堪えきれなかった笑いが漏れ出す。
ルナ・アーシアの気持ちはよくわかる。ぱっと聞き流した程度では同じものに聞こえてしまうほど、この曲は似たようなメロディの繰り返しだ。この曲を第一章から第百八章まで聴かなければならないとすれば、それはとんでもない拷問であるとすら思う。それくらい退屈なのだ、この曲は。
「出ましょう」
ルナ・アーシアの服の袖をくいくいと引っ張る。セレナだって飽きていたのだから、わざわざふたり揃ってつまらない演奏会に閉じ込められる必要はない。
ホールの出口に向かいながら、ルナ・アーシアがまた、セレナの耳元で囁いた。
「セレナ嬢から甘い匂いがします」
貴女のほうこそ。
「美味しそうですね」
やめて、というように睨めば、いたずらっ子のようにひひっと笑った。
そのあともいくつかの楽団をまわったが、どこも似たり寄ったりだった。
皇后陛下や他の有力な皇妃が手配したホールはどこも満席で、とはいえわざわざ空席ができるまで待つほど、セレナもルナ・アーシアも熱心ではなかった。そうすると、残ったところは先程のように後ろ盾のない皇妃が手配したぱっとしない楽団ばかり。
庭園にもどるのもいかがなものかと話し合った結果、なぜか言いくるめられるようにしてルナ・アーシアの自室にお邪魔することになった。
「狭いわね」
「だから言ったでしょう? 上級侍女の部屋に比べたら、女官や下級侍女の部屋は驚くほど狭いんですよ」
部屋の狭さも驚きだが、寝室が別れていないことも衝撃である。
狭い部屋のなかに質素な作りのベッドと、机、椅子が二脚。部屋の隅に、セレナが押し付けたドレスが大事そうに飾られている。
下女の部屋みたい、という言葉はなんとか飲み込んだ。
「下女の部屋みたいですよね」
「言わないでおいたのに」
あはは、と笑って茶の準備を始めたルナ・アーシアに促され、椅子に腰を落ち着ける。テーブルの上にはすでに、先ほど運ばせた菓子の包みがあった。
「もともとは下女の部屋だったんですよ」
「……なぜ貴女に下女の部屋が割り当てられているの」
「おっと、怒らないでください。違いますから、ね?」
なにが違うというのか。
たとえ小国だとしても、礼儀作法に恥ずべきところもなく、シェイルアード帝国への留学者に選ばれるような女性だ。自国ではそれなりの身分どころか、王族の血を引いていると言われたってセレナは驚かない。
そんな女性を、小国の留学者だからという理由で下女の部屋に押し込めるなど、あって良いわけがないだろう。
「部屋が足りないんですよ」
「はい?」
「部屋が、足りないんです」
皇妃様が多すぎて。
ああ、なるほど。と、ようやくその言葉で、合点がいった。良かった。ルナ・アーシアがこの国でいわれなき差別を受けているのかと勘違いしてしまった。
「いまでは下女も個室を持つ者はほとんどいません。皇后陛下や皇妃様、上級侍女お付の数名のみです」
数名の下女を除き、その殆どは合同部屋。身分を持たない下級文官も合同部屋。上級文官ですら本来は下女の個室だった部屋に押し込められた、と。
ルナ・アーシアの説明を聞きながら、思わず顔をしかめてしまった。そんな顔を見て、ルナ・アーシアは笑う。
「後宮の増築が追いつかないんですよ。建てても建てても増えるから」
「三桁も見えてきたものね」
笑顔が、苦笑に変わった。
明るく話しているとはいえ、後宮の予算管理を行う皇后陛下の文官とあっては、笑い事ではないのだろう。いかに政治に興味のないセレナとて、それくらいは理解できる。
「でも、なんでこんな話をしてくれたの」
「……セレナ嬢も、おそらく他人事ではなくなるかと」
「お部屋?」
ふるふると頭が横にふられ、細い金糸がさらりと首にまとわりついた。
「場所も足りていなければ、予算も足りていないのです」
「それは……わかるけれど」
予算が足りないから出ていけ、と言われるならばセレナは喜んで出ていく。しかし、そういうわけでもなさそうで、少しだけ身構えた。
「後宮所属の下女が、何名か解雇になります」
下女が解雇。何名か、とは言うけれど、おそらく数名ぽっちの話ではないはずだ。
「リュニが、関係するのね?」
「はい。セレナ嬢がとても大事にしておられるようなので、先にお話しておこうかと」
話の続きを促すように頷いた。
リュニはセレナが連れてきた下女であり、後宮所属ではない。不敬罪や大罪を犯さないかぎり、いくら皇后陛下の判断といってもそう簡単には解雇できないはずだ。
「まずは、後宮所属の下女が半分ほど解雇となり、そのあとは上級侍女の専属制度が廃止となります。後宮に入れる者は両陛下の許可を得た女人のみですから」
「たしかに、リュニは実家に帰さないといけないわね」
目を閉じて、少しだけ考える。
専属の下女が許されないとなればリュニは実家に帰すほかない。いくらセレナが嫌だと我儘を言ったところでどうしようない話だ。リュニがいなければ、身の回りの世話は後宮の下女に任せることになる。しかし、その下女の数も減る。侍女の数を考えれば、世話が行き渡るとはとても思えない。
セレナの侍女期間が満了するまで、残りは一年と少し。
「専属制度の廃止はいつ?」
「まずは後宮に所属する下女の解雇で様子を見ますので……本当に廃止となるならば、およそ半年ほどかと」
「……はぁー……無理ね」
無理である。
リュニを帰して、残り半年をひとりで耐える? 無理だ。
「わたくし、こう見えて箱入りなのよ」
「どう見ても箱入りですよ、セレナ嬢は」
「うるさいわね」
ルナ・アーシアが淹れてくれた茶で唇を濡らす。なかなか悪くない。慣れ親しんだ南部の茶葉だろう。
「リュニがいなければ身支度どころか朝も起きられないわね」
「私がお手伝いしますよ?」
「……貴女、ぜったいに下女の真似事をするような身分ではないでしょ」
笑うルナ・アーシアの顔から目を逸らしてため息をついた。
どう足掻いてもセレナは後宮から出られはしないし、どんなに我儘を言ったところでリュニは取り上げられる。ため息はつくが、わかっている。耐えるしかないのだ。
それか、結婚か。
「いざとなったら仮病のふりでもするわ」
「なら私は、看病するふりでもしますね」
結局、ルナ・アーシアからもたらされた話の解決策を見出すこともできず、あとの時間は茶を楽しみながら他愛もない会話をして過ごした。
二年という時を過ごして、友人とも呼べる者も増えて、この後宮が嫌なだけの場所でなくなってきた矢先の話。セレナはため息をとめる術もわからない。
部屋に戻ってからもリュニには言い出せず、けれど態度を隠せるほどの処世術も持たず、ただ大事な下女を心配させるだけだった。
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