第2話月の下の語らい

 リリアの胸は高鳴っていた。


 骸骨紳士の言葉はまるで呪いのように耳に絡みつき、体の奥深くに沈み込んでいく。




――私の心を奪え。




 その響きは甘美でいて、同時に残酷な宣告だった。骸骨に心があるのか? 彼の言葉の意味を理解しようとするほどに、思考は深い霧の中へと沈んでいく。




(……どう、すれば……?)




 自分自身に問いかけた。


 逃げるべきだ。こんな異形の存在と関わるのは、あまりにも危険。だが、足が動かない。それは、恐怖が膝を縛るわけではなかった。

彼の言葉が引っかかる。胸の奥をざわつくのだ。




 奪えと言われて、拒絶するよりも先に思い浮かんだのは――ならば奪ってやる、だった。




 なぜそんな考えが浮かぶのか。分からない。ただ、彼の言葉はどこか、自分自身の過去と響き合っているようにも感じた。




 リリアは、生まれた瞬間から呪われていた。




 左肩に浮かぶ黒紫の痣。まるで悪意そのものが肌に刻み込まれたようなそれは、生後わずか三日で彼女を「不要なもの」にした。




『この呪われた痣が我が家の名誉を汚すわけにはいかない』




 実の両親は、そう言って彼女を捨てた。


 父も母も、どんな顔をしていたのか知らない。抱きしめられた記憶もない。ただ、夜の冷たさと、自分が誰にも望まれなかったという事実だけが、彼女の中に沈殿していた。




 孤児院。




 そこは、決して悪い場所ではなかった。


 院長も世話係も、彼女を疎ましがることなく育ててくれた。温かいスープをよそってくれる手は優しく、ベッドにそっと毛布を掛けてくれる夜もあった。




 院長先生は、特にリリアを気にかけてくれた。どんなに外で「呪われた子」と囁かれても、先生は変わらずに言ってくれた。




『大丈夫。貴女は、幸せになれるわ』




 リリアは、その言葉を信じたことはなかった。けれど、先生の温かい笑顔だけは、確かに彼女の中に刻まれていた。そして今、先生は病に伏している。




 必要な薬があるのだ。それを手に入れるために、リリアは夜の街を駆けた。だが、道に迷い、気づけばこの奇怪な場所へと迷い込んでしまった。


 だから、帰らなければならない。




 先生が待っている。




 あの温かい手が、冷たい死に蝕まれる前に。この化け物の紳士に囚われている場合ではない。




「帰りたい」――思わずそう呟いた。


いや、違う。


――帰らなければならない。




 だから、ここで止まっている暇はない。リリアは静かに息を整えると、ふっと唇を歪めた。




「奪えば、いいのね?」




 挑戦的な響きを含んだ声が、夜の霧の中に落ちる。骸骨紳士は、わずかに肩を揺らした。嗤ったのだ。




「ほう……。なかなか面白い娘だ」




 闇を孕んだ眼窩が、冷たい興味を帯びてリリアを見つめる。




「私の心を奪う? 人間風情が?」

「風情ねぇ……」




 リリアは肩をすくめ、余裕すら見せながら一歩前へと踏み込んだ。




「何も持たず、誰にも望まれず、生きてきた。でも、それは何も奪えないってことじゃないわ」




 静寂。


 墓場の霧がゆるやかに渦を巻く。骸骨たちのワルツが、どこか遠くで響いていた。




「生意気な娘だ」




 骸骨紳士は、ゆっくりとリリアの手を取る。その指先は氷のように冷たく、しかし、確かに彼の存在を感じさせるものだった。




「いいだろう。ならば、存分に試してみるがいい」




 リリアはその手を払わなかった。むしろ、挑むように指を絡め、握り返した。




「ええ、遠慮なく」




 彼女の声には、ほんのわずかに震えがあった。それは恐怖か、それとも興奮か。ふたりの視線が交錯する。これは夜の舞踏会の幕開け。


 リリアと骸骨紳士の、静かなる戦いの始まりだった。








 リリアはひとり、墓場の片隅に腰を下ろしていた。霧が静かに漂い、遠くで骸骨たちのワルツが続いている。




ここから、どうすればいい?

逃げ出す方法は?

骸骨紳士を出し抜く策は?




 考えなければならないのに、頭がうまく働かない。張り詰めた神経と闘いの余韻が、彼女の身体を重くしていた。




 リリアが息を詰まらせた、その刹那。まるで場違いなほど陽気な笑い声が、ひときわ大きく響き渡った。




「あらまあ、ずいぶんと大変そうね。そんなに怖い顔しなくても大丈夫よ」




 思わず声のほうを振り向くと、そこにはカラフルな羽飾りをつけた骸骨の女が立っていた。薄桃色のドレスが、墓場の夜風に揺れている。表情のはずはないのに、なぜか彼女は笑っているように見える。




「あなたは……?」




 リリアが戸惑いながら尋ねると、彼女はまるで挨拶でもするかのように腰を折って優雅におじぎをした。




「わたくしはエレーヌ。それよりあなた、せっかく夜の舞踏会に来たのに、そんなに緊張してちゃもったいないわ。さあさあ、肩の力を抜いて!」




 軽やかで温かみのある声に、リリアの頬がわずかに緩む。すると、今度は背後から、青いジャケットを着た骸骨がひょいと顔を出した。




「うんうん、そうそう。もっと気楽に、楽しく!」




 彼はフレデリックと名乗り、骨の手に持った真っ赤な薔薇をひらひらと動かしながら、軽快なステップを踏んでみせる。あの厳ついガイコツ紳士が放つ緊迫感とはまるで違い、どこか愉快で親しみやすい空気が漂っていた。




「で、でも……」




 リリアはうつむき加減に言葉を詰まらせる。あの理不尽なガイコツ紳士が何を企んでいるのかもわからず、楽しむなどという気分になれそうになかった。




「わかるわ……本当は帰りたいのよね?」




 エレーヌが、まるでリリアの心を読んだかのように、優しく問いかけた。リリアは小さく息を吐く。




「ええ……意味のわからないことばかりで……」




 自分でも情けないと思うほど弱々しい声。そんなリリアの様子を見つめながら、エレーヌは肩をすくめた。




「まあ、あの紳士は特別ね。何を考えているのか、わたくしたちにもさっぱりわからない。だから、気にしなくて大丈夫よ」




 彼女が視線を向ける先には、ほかの骸骨たちが集まっている。青や緑のドレスをまとった骸骨たちは、楽しげに談笑したかと思えば、骨同士で肩を組んで輪を作り、くるくると回り始める。転がってしまった頭蓋骨も、慌てるどころか「おっと失敬」と笑いながら拾い直していた。




「……なんだか、可笑しい」




 リリアは思わず吹き出してしまった。さっきまで感じていた恐怖が、ほんの少し遠のいた気がする。




「ひとまず、彼のことは忘れて、こっちへおいでよ」




 フレデリックが片腕を示すように掲げつつ、パーティーへの招待を軽快な声で呼びかける。骨と骨が擦れる、カチカチとした音までも、どこか楽しげに響いていた。




「……ええ、でも……」

「何を迷うことがある? ここは『夜の舞踏会』なんだよ。考えすぎずに、楽しんだ者勝ちさ!」




 フレデリックは大げさにウインクするふりをして、リリアを手招きした。エレーヌもくすっと笑みをこぼし、リリアの背中をそっと押す。




「ほら、一緒に見にいきましょ。大丈夫、わたくしもいるもの。何とかなるわよ」




 その軽やかな口調に、リリアは小さく息をついた。確かに立ち止まっているだけでは状況は変わらない。少しだけ勇気を出して、一歩踏み出してみるのも悪くない気がする。




「……そう、ね」




 決心したリリアが、少しぎこちない足取りでフレデリックたちの輪へ近づくと、そこにいた骸骨たちは一斉にこちらを振り返り、大きく手を振った。




「おお、新顔さん、いらっしゃーい!」

「一緒に踊る? それともおしゃべりする?」

「お菓子は……ないけど、代わりに面白い話ならたくさんあるよ!」




 彼らは思い思いに声をかけてくる。そのほのぼのとした雰囲気に、リリアは気づけば微笑んでいた。さっきまでの緊張や恐怖が、少しだけ嘘のように感じられる。




(……本当に、ここはなんなんだろう)




 不思議な世界——夜の舞踏会。ぶっきらぼうなガイコツ紳士の言葉は、まだ頭の片隅で渦を巻いている。けれど今は、この奇妙ににぎやかで温かい輪の中に、ほんの少しだけ身を委ねてもいいかもしれない。




「……みんな、どうぞよろしく」




 リリアがそう伝えると、まるで歓迎の合図でもあるかのように、軽快な音楽がまた広がり始めた。愉快に笑い合う骸骨たちに囲まれ、リリアはいつの間にか、あの理不尽なガイコツ紳士の冷たい視線を忘れていた。




 さらに、いつの間にかリリアの周囲には、楽しそうな骸骨たちが集まってきている。その中でフレデリックが、気さくな笑い声を上げた。




「そうそう、リリア。さっきのダンスはなかなか見事だったよ」




 青いジャケットをはためかせながら、骨の指先でリズムをとっているフレデリック。言葉こそ軽いが、どこか気遣うような優しさがにじみ出ている。




「いえ、私はただ……無我夢中だったんです」




 リリアは恥ずかしさと戸惑いで視線を伏せる。褒められるのは悪い気がしないが、同時にあのガイコツ紳士の言葉が頭から離れない。




——「私の心を奪え」




 正直、意味がわからない。奪ってどうするのか。それに、こんな場所で、あんな相手の“心”なんて本当に奪えるのだろうか。




「ねえ、リリア?」




 エレーヌが、ふわふわの羽飾りを揺らしながら首をかしげる。




「なあに?」

「やっぱり、彼のこと考えてるの?」

「ええ、どうすればいいのか、わからなくて……」




 リリアが深刻な顔をして言うと、周囲の骸骨たちは「ほうほう」と一斉に身を乗り出す。まるで興味津々と言わんばかりの様子だ。




「心を奪う、か。いやあ、あの人はちょっと変わってるよねえ!」




 ピエロのような帽子をかぶった骸骨が、楽しそうに杖を回しながら笑う。




「そうそう、本当に何を考えているのかしらね……」




 エレーヌは冗談めかしながらも、少し困ったように眉を寄せる。フレデリックは肩をすくめて、リリアを見つめた。




「リリア、“心を奪う”って言われたなら、やるしかないだろ? どうせやらなきゃ帰れないんだし、僕たちも協力するよ!」

「う、うん。ありがとう。でも、具体的にどうやって……?」




 切実なリリアの声に、骸骨たちは思い思いに考えを巡らせている。




「一番手っ取り早いのは“恋”じゃないかしら?」




 エレーヌの何気ない一言に、周囲の骸骨たちが「おおっ」とどよめいた。リリアは思わず目を見開く。




「こ、恋!? そんなの……無理に決まってるわよ!」

「でも、おとぎ話なら“愛の力”で相手の心を動かす話って多いじゃない? だから“心を奪う”って、そういうことなのかなって思うの」




 エレーヌは悪戯っぽく笑いながら、ドレスのすそを直す。そこへ杖を持った骸骨が口を挟んだ。




「相手はリンゼイだぜ? 恋だなんて、生半可じゃ無理だろう」


「天岩戸をこじ開けるより難しいかもね……」




 さらにフレデリックが小さくうなずく。




「だいたい、俺たち骸骨に本当に“心”なんてあるのかどうか……」




 その言葉にリリアは思わず首を傾げる。けれど、エレーヌはふっと真剣な表情になった。




「でもね、私は思うの。あの人、すごく強い感情を抱えている気がするわ。許せない何かかもしれないし、誰かを愛したいのかもしれない。とにかく、簡単には消えない想いがあるってことよ」




 そう言われてみれば、あのガイコツ紳士がリリアを強引に捕まえたのにも、ただの気まぐれ以上の理由がありそうに思えてくる。




「……彼があそこまで頑なに心を拒絶するのって、何か隠された理由があるのかしら」


「なら話は簡単さ。直接聞けばいいだけだろ? なあ、リリア」


「そ、そんなの無理よ。どう見たって、すんなり話してくれるような相手じゃないわ」




 リリアが肩を落とすと、フレデリックはうんうんとうなずきながらも、骨の胸を叩いてみせる。




「そこは僕らに任せてよ。いっしょに手を貸すからさ!」

「え……ほんとに?」




 思わぬ申し出にリリアが戸惑っていると、エレーヌも軽くウインクしてから冗談めいた調子で言った。




「そうよ、わたくしも協力するわ。彼を無理に変えようとするんじゃなくて、まずは彼を知ることから。いい考えがあるの」




 そのちゃめっ気たっぷりな口調に、リリアは少しずつではあるが安心感を覚えた。帰れるかどうかはわからない。それでも、今ならこの温かい骸骨たちと一緒に一歩進んでみようと思える。




「よーし、それじゃあみんなで作戦会議といこうか!」




 フレデリックの声に呼応するように、骸骨たちは「おおー!」と声を上げ、リリアを中心に集まってきた。そして一斉に拍手や歓声を上げる。




「がんばれよ、リリア!」

「そうそう、面白いことになりそうね」

「久しぶりにダンス以外で盛り上がれるかも」

「コラコラ、彼女が困ってるのに楽しんでどうするのさ!」

「あはは、ごめんごめん、リリア」




 半笑いになりながらも、リリアは先ほどまでよりもずっと心が軽く感じられた。たしかに状況は最悪といえるけれど、こんなに明るくて頼もしい仲間がいるなら、なんとかなるかもしれない——そんな気がしてくる。




 夜の舞踏会という不思議な世界。最初に感じていた恐怖や混乱は、いつの間にか少しずつ解け始めていた。生と死の境界を越えた骸骨たちの笑顔(?)は、驚くほど人間らしい温かさを持っている。




「悪くはない、かも……」




 リリアはそう心の中で呟き、少しだけ笑みをこぼした。ここから始まる「ガイコツ紳士の心を奪う」ための計画が、どんな風に展開していくのかは、まだわからない。それでも、一歩踏み出そうと決めたリリアの周りには、軽快な音楽と骸骨たちの陽気な声が広がっていくのだった。












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