第7話「過去の亀裂」
風間のアパートで発見した手紙を手に、瑠璃は震える指で次のページをめくった。高山もすぐ横で、緊張した面持ちで読み進めている。
「私の死因について公式発表は自然死となるだろうが、実際は違う。長年の病気悪化に見せかけられた毒殺の可能性が高い。これは単なる憶測ではない。」
風間の手紙はさらに続いていた。
「20年前、『松風の朝』をめぐる真贋論争が起きた時、私は本当は贋作の存在を知っていた。しかし城田が青山健太郎の家族、特に娘の瑠璃を危険にさらすと脅したため、私は沈黙を守った。君の父は真実のために戦おうとしたが、私は彼を説得して身を引かせた。君を守るためだった。」
瑠璃は息を飲んだ。父が真実を追求するのをやめたのは、風間が説得したからだったのだ。
「昨年、私は末期の病と診断された。残された時間で真実を暴くため、証拠集めを始めた。佐々木恵が城田の共犯だと確信したのは、彼女が私の作品の微細な筆遣いについて普通の学芸員には分からないような質問をしてきたときだ。調査を進めると、彼女が過去に城田画廊で働いていたことも判明した。」
手紙は次第に風間の贋作に対する調査の詳細に移っていった。風間は自分の絵のすり替えに気づいてから、密かに作品の詳細な記録を取り始めていた。そして死の数ヶ月前、決定的な証拠を掴んだという。
「城田のプライベートギャラリーに招かれた時、偶然にも『松風の朝』の本物を目にする機会があった。彼は贋作品と本物を比較して喜ぶ趣味があるらしい。その場で私は動揺を悟られないよう努めたが、すぐに行動を起こした。松風庵に長期滞在する理由を作り、本物と同じ構図の絵を何度も描き直した。そして『松風の下絵』として証拠を残したのだ。」
風間は最後の数ヶ月、城田グループに監視されながらも巧妙に証拠を隠し、複数の人物に分散して託していたことが明かされていた。そして最も重要な証拠は、瑠璃の父への信頼から、結局は瑠璃に託されることになったのだ。
「青山記者は既に他界していたが、彼の娘である君なら、父親と同じ正義感と鋭い洞察力を持っていると信じていた。だから私は君に手がかりを残したのだ。」
手紙の最後は瑠璃への直接的なメッセージで締めくくられていた。
「瑠璃、君は私の予想通り真実を解明してくれた。しかし、まだ終わりではない。城田と佐々木の背後には、もっと大きな組織がある。『松風の朝』の真贋問題は氷山の一角に過ぎない。添付の写真とノートを調べれば、次の手がかりが見つかるだろう。君の父は最後まで真実のために戦った勇敢な人物だった。私にはできなかったことを、彼の娘である君に託す。」
瑠璃は手紙から目を離し、同封されていた写真を取り出した。それは20年前のオークションの様子を写したもので、「松風の朝」が展示されている。その周囲には城田、佐々木の姿もあるが、もう一人、見知らぬ男性が写っていた。
「この人物は誰でしょう?」高山が写真を指差した。
「分からない…でも、どこかで見た顔のような…」
瑠璃は添付されていたノートを開いた。そこには風間特有の細かい字で、贋作の見分け方や関係者のリストが記されていた。そして最後のページに、一つの名前が丸で囲まれていた。
「藤原克彦——真の黒幕」
「藤原克彦?」瑠璃は眉をひそめた。「どこかで聞いた名前だわ」
高山がスマートフォンで検索すると、藤原は国内有数の美術品コレクターで実業家であることが分かった。複数の美術館への寄付や芸術振興への貢献で知られる人物だった。
「彼が写真に写っている人物かもしれません」高山は言った。
さらにノートを調べると、藤原の所有する「東洋美術財団」が20年前から風間作品を含む日本画を積極的に収集していたことが記されていた。そして風間の疑惑によれば、この財団が贋作ビジネスの資金源となっていた可能性があるという。
「これは大きな問題です」高山は真剣な表情で言った。「藤原は政財界に強い影響力を持つ人物。簡単に捜査できるような相手ではありません」
「でも、証拠があれば…」
「そうですね。まずは風間先生のノートに書かれた情報を確認しましょう」
二人はアパートを後にし、瑠璃の自宅へと向かった。そこで風間の残した資料をさらに詳しく調べる必要があった。
自宅に戻った瑠璃は、風間のノートと併せて父の遺品も再検討することにした。父の取材ノートには、20年前の「松風の朝」の真贋論争について詳細なメモが残されていた。
「ここに藤原の名前が…」瑠璃は父のノートの隅に小さく書かれた名前を見つけた。「父も藤原に疑いを持っていたのかもしれない」
父のノートをさらに調べていると、興味深い記述が見つかった。
「F氏の地下収蔵庫には本物が保管されているという噂。確認の必要あり。K記者に連絡。」
「F氏とは藤原のことでしょう」高山が言った。「そして地下収蔵庫…藤原邸にあるのかもしれません」
「K記者って誰だろう?父の同僚かしら」
調査を進めるうち、時間はどんどん過ぎていった。夜も更けた頃、瑠璃のスマートフォンが鳴った。森田館長からだった。
「青山さん、大変なことになりました。警察が美術館に来て、全ての風間作品を押収していきました」
「え?どういうことですか?」
「どうやら藤原克彦氏が、風間作品の所有権を主張する訴えを起こしたようです。彼の弁護士が法的文書を持ってきて…」
瑠璃と高山は顔を見合わせた。藤原が動き始めたのだ。贋作ネットワークの調査が彼に近づいていることに気づき、先手を打ってきたのだろう。
「私たちが風間先生のアパートを訪れたことが知られたのかもしれません」高山は言った。「監視されていた可能性があります」
その夜、瑠璃は父と風間の遺した情報を整理し、次の行動計画を考えた。藤原という強大な敵に立ち向かうためには、決定的な証拠が必要だ。
翌朝、瑠璃が目を覚ますと、郵便受けに一通の封筒が投函されていた。差出人はなく、中には一枚のメモと古い鍵が入っていた。
「真実を知りたければ、今夜8時に藤原邸近くの旧倉庫へ。一人で来ること。—K」
「K記者?」瑠璃は父のノートに出てきたイニシャルを思い出した。
高山に連絡すると、彼は強く反対した。
「罠の可能性があります。警察に相談しましょう」
「でも、この鍵は何かの手がかりかもしれない。それに、父のノートにもK記者の名前が出ていたの」
議論の末、二人は妥協点を見出した。瑠璃が会いに行くが、高山は距離を置いて見守り、何か異常があれば即座に介入するという計画だ。
その日の午後、瑠璃は美術館に立ち寄り、最新状況を確認した。森田館長は藤原の法的措置に対抗するため、弁護士と対応を協議していた。
「青山さん、風間先生の件で何か進展はありましたか?」
瑠璃は詳細を話すべきか迷ったが、今は情報を限定的に共有するのが賢明だと判断した。
「少し手がかりはありますが、まだ確証はありません。今夜、重要な情報を得られるかもしれません」
館長はただ頷き、「気をつけてください」と言った。
夕方、瑠璃は指定された場所、藤原邸近くの旧倉庫に向かった。築50年は経つであろう古びた建物は、かつて美術品の保管に使われていたという。高山は約束通り、離れた場所から見守っている。
瑠璃が倉庫に近づくと、入口に小さな南京錠がかけられていた。手紙と共に届いた鍵を試すと、ぴったりと合い、錠が外れた。
薄暗い倉庫内に足を踏み入れる。懐中電灯で照らすと、古い美術品の梱包材や額縁が散乱していた。奥に進むと、小さな事務スペースが見える。
「誰かいますか?K記者さん?」
静寂が続いた後、奥の部屋から足音が聞こえてきた。そこに現れたのは60代半ばと思われる痩せた男性だった。
「青山瑠璃さんですね。お父さんにそっくりだ」
「あなたがK記者?」
「加藤です。かつてお父さんと同じ新聞社で働いていました」男性は優しい笑顔を見せた。「20年前、彼と一緒に風間勇太の贋作問題を追っていたんです」
加藤は事務机の引き出しを開け、古いファイルを取り出した。
「これが私たちの調査資料です。藤原克彦が贋作ネットワークの黒幕であることを示す証拠が揃っています。しかし当時、彼の権力に阻まれ、記事にはできませんでした」
「なぜ今になって?」
「風間先生の死、そして贋作問題が再浮上したニュースを見たからです。時効になる前に真実を明らかにしたい」
加藤は藤原の組織について詳細に説明した。彼は単なるコレクターではなく、贋作を通じた資金洗浄システムを構築していたという。著名な芸術家の作品を贋作にすり替え、本物は海外の裏マーケットで高値で取引する。そして美術館への寄付や芸術振興への貢献を装いながら、その実態は巨大な詐欺ネットワークだった。
「お父さんはこの真実を追求し続けました。彼は決して諦めなかった」加藤の目に涙が浮かんだ。「あなたは彼の意思を継いでくれた。風間先生も喜んでいるでしょう」
瑠璃は加藤から受け取ったファイルに、決定的な証拠が揃っていることを確認した。藤原と城田のやり取りを記録した音声データ、取引の証拠となる書類、そして藤原邸の地下収蔵庫の設計図まであった。
「これがあれば、藤原を追い詰められる」
しかし、その時、倉庫の外から物音がした。誰かが近づいてきている。
「急いで」加藤は瑠璃の手を引いた。「裏口から出ましょう」
二人が裏口に向かおうとした時、倉庫の入口が勢いよく開いた。そこには二人の男性が立っていた。藤原の部下らしい。
「逃げて!」加藤は叫び、瑠璃をかばうように立ちはだかった。
瑠璃は迷ったが、証拠を守るため、裏口から脱出した。外では高山が待機しており、彼女を安全な場所まで導いた。
「加藤さんは?」
「警察に連絡しました。すぐに到着するはずです」
瑠璃は安堵したが、まだ安心はできない。手に入れた証拠を確実に保全し、藤原の罪を暴かなければならない。父と風間の20年に及ぶ闘いは、今、彼女の手に委ねられたのだ。
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