第2話「消えた絵画」


朝靄が立ち込める中、青山瑠璃は松風庵に向かうバスに揺られていた。窓から見える風景は、まるで風間勇太の絵画のようだった。山の稜線、点在する家々、そして朝日に照らされる木々の緑。風間がこの風景から多くのインスピレーションを得たことは想像に難くない。


「松風庵、次でございます」


バスの車内アナウンスに、瑠璃は我に返った。バッグに入れた手帳と、あの不思議な手紙のコピーを確認する。「真実は絵の中に隠されている」——その言葉の意味が、今日少しでも明らかになればと思った。


松風庵は予想以上に立派な建物だった。江戸時代から続く老舗旅館で、檜造りの玄関や手入れの行き届いた庭園からは、歴史の重みが感じられる。


「いらっしゃいませ」


迎えてくれたのは、60代と思われる女将だった。しっかりとした佇まいの中に優しさを感じさせる女性で、村松さんと名乗った。


「西部美術館の青山と申します。お電話でお伝えした通り、風間勇太先生について少しお話を伺えればと思いまして」


「ああ、青山さん。風間先生のことなら、喜んでお話しいたします。どうぞこちらへ」


村松女将は瑠璃を奥の小さな応接間に案内した。窓から見える庭園には、松の古木が何本も立ち並んでいた。


「美しい松ですね」


「ええ、うちの自慢でございます。風間先生もこの松を何度も描いてくださいました」


お茶を出しながら、村松女将は風間との思い出を語り始めた。風間勇太は生前、毎年のように松風庵に滞在し、この地の風景を描き続けていたという。特に最後の滞在となった去年の秋は、長く逗留していた。


「最後の滞在では、どんな様子でしたか?」


「そうですね…普段と少し違っていたように思います。いつもは朝から外に出て風景を描いておられたのですが、あの時は旅館の中にこもりがちで、特に離れの蔵を気に入られていました」


「蔵?」


「ええ、うちには小さな蔵がございまして、先生はそこをアトリエのようにお使いになっていました。『最後の作品のための準備をしている』と仰っていて…」


村松女将は少し言葉を詰まらせた。


「何か気になることがあったのでしょうか?」


「実は…先生が亡くなる少し前、『いつか真実を絵に残す』とおっしゃったんです。私には意味が分かりませんでしたが、何か心に引っかかるものを抱えておられたようでした」


瑠璃はその言葉に耳を澄ませた。風間の手紙の内容と重なる。


「ところで、風間先生のお客様で、ここによく来られる方はいましたか?」


「そうですね…美術商の城田さんという方が、風間先生が滞在中によくいらっしゃいました。先生の作品を多く取り扱っている方で、二人でよく長時間話し込んでいましたね」


「城田…」瑠璃はその名前をメモした。


「一度だけ、激しく言い合いをしているのを耳にしたことがあります。普段は穏やかな先生が珍しく声を荒げていて…」


「何について話していたのか、覚えていませんか?」


「はっきりとは聞こえませんでしたが、『本物と偽物』という言葉が何度か出ていたように思います」


本物と偽物——瑠璃の中で何かが繋がりそうになった。消えた「松風の下絵」と関係があるのだろうか。


「あの蔵を見せていただけますか?」


女将に案内され、瑠璃は旅館の裏手にある石造りの小さな蔵へと足を運んだ。中は整理されており、風間が使っていた形跡はほとんど残っていなかったが、壁に向かって置かれた画架だけは当時のままだという。


「先生はこの位置から、窓越しに見える松と庭園を何度も描いておられました」


窓から見える風景に見覚えがあった。それは「松風の朝」の構図とよく似ていた。


「ここで最後に描いていたのは何の絵だったのでしょう?」


「詳しくは存じませんが、小さなスケッチブックに何度も描き直していたようです。『これが最後の証拠になる』と、独り言のようにおっしゃっていました」


瑠璃の心臓が高鳴った。それは消えた「松風の下絵」に違いない。


松風庵を後にした瑠璃は、城田という美術商について調べることにした。スマートフォンで検索すると、都内にある「城田画廊」のオーナーであることがわかった。風間勇太の作品を多く取り扱っており、特に「松風の朝」が高額で落札された時の仲介者でもあったらしい。


美術館に戻った瑠璃は、早速館長の森田に報告しようとしたが、応接室から聞こえる声に足を止めた。


「…これ以上問題が大きくなれば、美術館の信頼にも関わる。慎重に進めなければならない」


森田の声だった。瑠璃は思わず立ち止まった。


「分かっています。ですが、あのスケッチが見つからない以上、確証を得るのは難しい」


もう一つの声は佐々木のものだった。二人は何について話しているのだろう。


「とにかく、青山さんには内緒にしておきたい。彼女は風間先生の研究者として、真実を知ったら…」


その時、新人の高山が廊下を歩いてきたため、瑠璃は慌てて自分のデスクに戻った。頭の中は混乱していた。森田と佐々木が隠している「真実」とは何なのか。それは風間の手紙や消えた絵と関係があるのだろうか。


「青山さん、お疲れ様です」


高山の声に振り返ると、彼は優しい笑顔を向けていた。


「あ、高山くん。お疲れ様」


「松風庵に行かれたんですよね?何か分かりましたか?」


「ええ、少しね。でも、まだ謎は深まるばかりで…」


瑠璃は警戒心から、詳しいことは話さなかった。高山も何か知っているのかもしれない。今は誰も信用できない状況だった。


夕方、閉館準備に入った頃、瑠璃は展示室の「松風の朝」を再び観察していた。朝もやの中の松林と旅館。そして画面右下の人影。よく見ると、その人物は何かを持っているようだ。小さなキャンバスだろうか。


「やはり…」


瑠璃は風間の最後の言葉を思い出した。「真実は絵の中に隠されている」。この絵の中に何か重要なメッセージが隠されているのかもしれない。


保管庫に戻った瑠璃は、風間の他の作品も丹念に調べることにした。「松風の朝」に関連する下絵や習作はないか、全ての作品を一点一点確認していく。すると、「朝の光」というタイトルの小さな油彩画に気がついた。「松風の朝」と同じ構図だが、描かれた時期が10年ほど新しい。


絵をよく見ると、筆のタッチや色使いが微妙に異なる部分があることに気づいた。特に空と松の描写には、風間特有の筆致が見られるが、建物の部分は何か違和感があった。


「これは…」


瑠璃は美術史研究者としての直感が告げていた。この絵の一部が、風間勇太本人の手によるものではない可能性がある。贋作、あるいは一部を別の誰かが描いた可能性。風間が言っていた「本物と偽物」とは、自身の作品に関することだったのか。


その時、背後から物音がした。振り返ると、そこには佐々木が立っていた。


「まだ残っていたのね。何を調べているの?」


突然の声に、瑠璃は思わず絵を手に隠した。


「あ、佐々木さん。風間先生の作品を整理していました」


「そう…」佐々木は瑠璃の手元を不審そうに見つめた。「昨日、城田さんという美術商から電話があったわ。風間先生の回顧展について相談したいって」


「城田さん?」瑠璃は動揺を隠せなかった。


「ええ、彼は風間先生の作品に詳しいから、展示の監修をお願いしようかと思って。実は彼、私の古い知り合いなの」


佐々木の言葉に、瑠璃は息を飲んだ。村松女将が話していた城田と風間の言い争い、そして佐々木と城田の繋がり。何か大きな秘密がここにあるようだった。


「そうだったんですね。城田さんと風間先生は親しかったんですか?」


「ええ、まあ…ビジネス上の付き合いよ」佐々木は言葉を濁した。「もう遅いわ。帰りましょう」


二人は保管庫を出て、それぞれ自分の荷物を取りに行った。瑠璃は「朝の光」の写真を密かにスマートフォンで撮影し、明日さらに詳しく調べようと決めた。


美術館を出る瑠璃の頭の中では、様々な情報が交錯していた。消えた「松風の下絵」、風間の謎めいた手紙、佐々木と城田の関係、そして「本物と偽物」という言葉。全てが「松風の朝」という作品に繋がっているようだった。


アパートに戻った瑠璃は、机に向かい、今日得た情報を整理した。そして、インターネットで城田画廊について詳しく調べ始めた。すると、20年前の記事が目に留まった。


「風間勇太の『松風の朝』、史上最高額で落札される」


その下には、満面の笑みを浮かべる城田の写真があった。そして、その隣に立っていたのは…佐々木だった。記事によれば、当時佐々木は城田画廊の主任キュレーターだったという。


「なぜ佐々木さんは、私に城田さんとの関係を隠していたのだろう…」


翌朝、瑠璃が美術館に向かおうとした時、スマートフォンが鳴った。森田からだった。


「青山さん、すぐに美術館に来てくれないか。大変なことが起きた」


「何があったんですか?」


「保管庫が荒らされた。そして…風間先生の『朝の光』が盗まれたんだ」


瑠璃は言葉を失った。昨日自分が調べていた絵が盗まれたのだ。これは偶然ではない。誰かが瑠璃の調査を警戒していることは明らかだった。


「すぐに行きます」


急いで美術館に向かいながら、瑠璃は決意を固めた。真実を突き止めるため、自分の調査をさらに進めなければならない。そして、その鍵は風間勇太の言葉にあるはずだ。


「真実は絵の中に隠されている」——その謎を解くために。

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