きみの隣はあたたかで
春休み前の短縮日課が始まった。遊ぶ時間が増えると浮かれている子、成績が下がったんじゃないかと通知表に今から怯えている子。様々あって普段の二割増しで騒がしくなった気のする教室は、なんだかいつもより更に居心地が悪く感じてしまう。逃げるように……というほどのことはないけれど、なんとなく下校路を歩く足取りが速くなる。
ゆるく首を絞めるスカーフを外してベッドの上に放り投げたら、それでようやく、少しだけ息ができる気がした。このまま自分もベッドに吸い込まれてしまいたい、そんな衝動をなんとか跳ね除けてセーターに袖を通す。この身体をずっと地面に縛り付けていた通学鞄の
家を出るとき、リモートワークの合間に部屋から出てきた父とすれ違った。カメラ越しとはいえ顔が映るからだろう、髭は綺麗に剃られ、びしっとしたスーツに紺色のネクタイというよそいきの姿だ。何度だって目にしているはずなのに、なんとなく見慣れない気がしてしまう。
昔は憧れがあった。仕事に行く二人を見送るのが好きだった。これから仕事をする大人、というのがそれだけで格好よく見えていたんだと思う。
今は……父のスーツ姿を見た程度では特に何の感慨も湧かない。何が変わったというのだろう。私も大人になったから? なんて、これはちょっとリリに感化されすぎているか。
「おかえり、雪奈」
「ただいま」
「なんだ、もう塾に行くのか。最近頑張ってるな」
言われて、気付く。この頃家を出るのが早くなったのは言うまでもなくリリと会う時間を確保するためだ。けれど、そうか。父には塾で自習でもしていると思われていたのか。悪いことなんかしてないのに、胸の奥がきゅっと傷んだ。
リリのことは、まだ誰にも話していない。やましいことをしているわけではないのだけれど、なんとなく、誰かに話してしまったらもうリリとは会えなくなるような、そんな予感がしていた。
「うん。まだちょっと時間あるけど、早めに行こうかなって」
「そうか、気をつけてな」
それだけ言うと、父はまたコーヒーの入ったマグカップを片手に自室に戻ってしまった。スーツ姿によくお似合いの可愛いキャラクターが描かれたマグカップは、当然父の趣味ではなくて、数年前の父の日に私が送ったものだ。
「ユキ、わるいこ。うそつきはまっくろ、です」
出掛けにした会話をそのまま伝えると、リリに一蹴された。こういうところ、リリは本当に容赦がない。
「嘘じゃないよ。『塾に』早めに行くとは言ってないもん」
子供みたいな言い訳をすると、「はいいろはもっとよくない」と返ってきた。どうやらご不満らしい。リリのこういう感覚的な言語にも多少は慣れてきた自覚があるけれど、実際どこまでニュアンスを汲み取れているのかはなんとも言えない。
リリとはここ最近毎日のように顔を合わせている。このベンチの上に姿を見ないのは、学校のない休日と雨の日くらいのものだ。どちらも一度ならず覗き見に行って確認したので間違いない。もちろん、リリには内緒だ。
後から聞いた話、そういう日は大抵、近くの公立図書館にいるらしい。公民館(コミュニティセンター、とかいうやつだ)に行ってみたこともあるけれど、うるさくて眠れなかったんだとか。どちらにせよ、多少なり空調の利いた室内というだけでこの座り心地の悪いベンチよりはよっぽど仮眠に都合が良さそうだが。
「リリに会うためなんだけど、そこは汲み取ってくれないの?」
「……そういうのも、よくない、です」
「だめ?」
「……こんかいだけ。じょうじょうしゃくりょう、です」
こういうズルが出来るようになったあたり、リリの扱いにも慣れたものだと我ながら思う。これじゃ本当に悪い子みたいだ。
「そういう言葉はほんとによく知ってるよね、リリ」
「リリは大人なので」
「はいはい」
自動販売機で買った缶のホットココアを両手に一本ずつ持ってリリの隣に腰を下ろす。「こぼさないでよ」と言いながら片方を手渡すと、「リリをばいしゅうする気だ」と返ってきた。可愛くない。
「そうだよ。リリにはこれが一番でしょ?」
「うん。すき」
頷くリリはもうココアに口をつけていた。リリにはちょっと熱かったのか、缶を少し傾けては離してを繰り返している。皿の上のミルクを舐める猫をなんとなく連想した。ちょうど猫舌って言葉もある。
一度に数滴ぶん程度しか飲めていなさそうなその動きを横目に見ながら、私も自分の缶に口をつける。やっぱり、リリが大袈裟なだけでそこまで熱くない。ほどよい温かさの甘ったるい液体が喉を通るたび、どこか満たされていくような感覚になる。リリのお気に入りになる理由もわかるというものだ。
二人してココアを飲んでいる間、会話らしい会話はなかった。二人にはよくあることだ。私は人と話すのが得意じゃないし、たぶんリリもそんなに。だから会話はいつもそう長くは続かないし、無理して話題を繋ぐこともしない。そんなこと、する必要もないとわかっているから。
やがて先に飲み終えたリリはふらふらと立ち上がると、自動販売機の横のゴミ箱へ缶を放り投げた。まだ三分の一ほど残っている私のココアを「飲む?」と差し出すと、リリは「んん」と首を振った。珍しい。
「ユキ、今日はまだじかんある?」
私の隣へ戻りざまに尋ねるリリの顔は、上瞼がとろんとしている。
「まだ余裕だけど」
幸いにもここ数日は短縮日課のおかげで時間は有り余っていた。
「どうしたの。眠くなっちゃった?」
リリが眠ってしまったらちょっと退屈するのは事実だけれど、寝顔を見ながらでも英単語帳くらいは開けるわけで。
「うん」
「しょうがないなぁ。おいで」
私が言うとリリは「ん」と小さく頷いて、何の遠慮もなく頭を私の膝に預けた。
狭いベンチの上はリリの小さな体でさえも完全に収まるほどのスペースはなくて、傍目には窮屈そうに見える。何度か心配して訊いてみたけれど、リリ自身は特に気にしていないどころか「ユキはまっしろだからよく眠れる」と満足げに言っていた。よくわからないが、私が近くにいると安心する、とかそういう意味だろうか。だとしたらちょっと悪くない気分だ。
私はうとうとしているリリの頭を静かに撫でる。たったそれだけなのに、何か満たされていくような感覚になるのが不思議だ。膝上に掛かるその薄っぺらな体重まで含めて、リリの隣は居心地がよかった。
「リリ、まだ寝てない?」
「……んん、なに?」
「リリの家族はさ、どんな人なの?」
ずっと気になっていたことだった。
リリの口から家族についての話題が出たことは、私が記憶している限り一度もない。それが意図的なのかそれとも無意識なのかはわからないが、どことなく踏み込んではいけない領域であるように感じられて、これまで訊けずにいたのだ。
けれど、今なら。純粋な疑問として口にすることが許されるような気がしていた。答えてくれると思ったし、答えたくないなら、そう言ってくれると思った。
「んー」
リリは目を閉じたままちょっと困ったような声を出して、それから「わかんない」と言った。
「わかんなく、なっちゃった」
「……そう」
はぐらかしたのではなく本当にリリ自身にもわからないのだと、声色も口調も間の取り方も、そのすべてが雄弁に語っていた。
「むかしはね、だいすきだったの。でもいまは、ちょっとこわい」
「リリが眠れないのは、そのせい?」
良くない踏み込み方をしているかもしれないと心の中で思いながら、私にはどうしても、脳裏に浮かんでしまったその疑念を問いかけずにはいられなかった。
「……わかんない」
その珍しく弱気な声にすこし胸が痛む。
「ごめん。余計なこと訊いた」
「いいの」
リリはそう言ったきり、それ以上何も答えなかった。そしてそのまま眠ってしまい、しばらく目を覚まさなかった。
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