命を宿す力
その夜、子の正刻(深夜0時)少し前。
純白の寝衣に着替えた俺は、瑞穂の居室の奥にある一室に座っていた。かつて瑞穂が齢分に呪力を込めるため、結界を張って籠った部屋だ。
祭儀の間とはまた違う濃い気の漲る部屋の最奥には、黒く艶やかな祭壇がある。大きくはないが、濃密な気配が立ち込める祭壇だ。こうして正面に座っていると、いつしかその奥深くへ意識が吸い込まれてしまいそうだ。
俺と同じく白い寝衣を纏った瑞穂が、そこへ小さな蝋燭を二本灯した。祭壇の奥には、齢分の酒の徳利が置かれている。
「これより、儀を始める。——良いか、旭」
俺の向かいに静かに座り、瑞穂が穏やかに問いかける。
「うん」
俺の答えに頷いた瑞穂は、立ち上がって踵を返すと真っ直ぐに祭壇を向いた。静かに祭壇の前へ進むと、厳粛な動作で一つ印を結ぶ。
瑞穂に指示された通り、それを合図に俺は瞼を閉じて合掌した。
いくつかの印を結ぶ瑞穂の衣擦れの音が静かに響き、やがて低く呪言を唱える声が響き始めた。
祭壇に置かれた齢分の酒の徳利から、次第に梅の香が強く流れてくる。その香りの濃厚な甘さに、脳の奥が微かに揺らぎながら熱を持つ。
ふと、瑞穂の呪言が止んだ。
それを合図に、俺は合掌を解き瞼を開ける。
瑞穂は祭壇に深く一礼すると梅酒の徳利を手に取った。額の前に掲げて数歩後退し、踵を返すと俺の正面まで静かに歩み寄る。
すっと座し、俺の目の前に置かれていた黒塗りの膳に徳利を置いた。
栓が抜かれた酒からは、言いようもなく甘い香りが一気に立ち上る。
膳の上のふたつの白い盃に、黄金色の酒がとろとろと注がれた。
徳利を膳に戻した瑞穂は、俺の隣へ移動して座し、真っ直ぐに祭壇を向いた。
二人同時に盃に手を伸ばし、それぞれに額の前へ盃を掲げる。
「この酒を交わして後の交わりにより、命を宿す者の身の内に新たな力を受くるものとする」
盃を口元へ引き寄せ、今度は一気に喉に流し込んだ。一度齢分の苦しみを抜ければ、それはひたすらに甘い酔いをもたらす美酒だ。
たまらなく香り高く熱いものが、喉から胸の奥へ流れ落ちる。それと同時に、全身が甘い熱に纏いつかれた。
心拍と息が乱れる。身体の芯が溶け出すような高揚。経験したことのない感覚に翻弄され、思わず隣の瑞穂を見上げた。
俺を見つめる水の瞳の奥も、激しく波立っている。彼もまたその波立ちに耐えるかのように俺を胸へ強く包み込んだ。
胸元の水の匂いを深く吸い込むと、脳さえが溶け出しそうだ。
瑞穂の眼差しが、強い力で俺を捉える。
「旭。
そなたの意思を、聞かせてほしい」
その眼差しを真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと答えた。
「俺が、新しい命を宿す。瑞穂が同意してくれるなら。
もう決めてた。ずっと前から」
「——……旭」
「——早く」
俺の言葉に堰を切ったように、瑞穂が俺を激しく抱き竦めた。
その場へ横たえる瞬間、強い気がぶわりと瑞穂から放出された。同時に、ふわりと優しい感覚が身体を包んだ。
それはまるで、柔らかな純白の雲を床に敷き詰めたかのように。
時を経て、再び唇が重なる。
これまでよりも、遥かに深い熱を持って。
深く唇を重ね合い、やがて俺の寝衣の襟を激しく乱していく瑞穂の息の熱さに、堪え難い喘ぎが唇から溢れる。
ふと、瑞穂の動きが止まった。
「……旭。
桜が、花開いたのだな」
「うん」
俺の左胸の肌には、桜の花のような印が浮かび上がっていた。
齢分で神と結ばれた伴侶の胸元に現れるという、その印が。
「……思ってたよりずっと鮮やかで、びっくりした」
「そなたの白い肌に咲いた桜は……
あまりに——」
続く言葉を見失ったかのように、彼の唇がその花を辿る。
甘く痺れるような刺激に、思わず反らした喉から吐息が漏れた。
やがて、神の猛々しさで瑞穂の嵐が自分を呑み込んでいく。南国の白い花が目の前に咲き乱れ、咽せ返る甘い香りが思考を奪っていく。
かつての夜と同じように。
けれど——
あの時のような、自分自身が崩壊してしまいそうな心細さは、今はもうない。
ちゃんと、受け止められる。
凄まじい程に押し寄せるこの熱量も、荒れ狂う嵐も。
「——瑞穂」
彼の名を呼び、水の瞳を恍惚と見上げながらその逞しい首筋に両腕を絡めて引き寄せた。
「——……っ……」
汗ばんだその肩に、ぐっと力が漲るのを感じる。
自分の両脇に滝のように乱れる銀の髪が、一層激しく揺れ、豪雨のように降りかかる。
銀の雨の激しい煌めきと、彼の放つこの上なく熱い波が、溺れるほどに繰り返し俺を満たした。
*
瞼を開けると、朝の光に満ちた明るい天井がぼやけた視界に映った。
春の風が、部屋の中を静かに流れている。
「目覚めたか、旭」
その声に、俺の意識はようやくはっきりと覚醒した。
横を見ると、寝衣を身体に掛けた瑞穂が片腕を俺の枕にしながら、柔らかな眼差しで俺を見つめている。昨夜乱した銀の髪をさらさらと額に遊ばせながら。
わあーー。腕枕してくれる我が夫の迫力すごい……
「……お、おはよ、瑞穂……」
いやもうなんか気恥ずかし過ぎて彼を直視できない。肩からかかっていた寝衣を慌ててずり上げ顔を半ば隠した。
俺の動揺ぶりに瑞穂が小さく笑い、寝衣ごと俺をぐいと抱き寄せた。
「こちらを見てくれ、旭」
「…………」
甘く請われ、従う以外にない。
間近で眼差しを合わせながら、瑞穂は静かに微笑んだ。
「やはり、私はそなたと繋がっていたのだな。
幼いそなたの額に、私の雨の雫が落ちたあの時から……
いや、それよりも遥か昔、さよと初穂が出会ったその瞬間から」
瑞穂の言葉に、思わず胸の底が熱く突き上げた。
「うん……そうだね。
そうだったんだね」
そのまま俺たちは、朝の光の中をとりとめなく揺蕩った。
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