伴侶の器

 刻の守の離宮から戻った夕餉時。瑞穂の居間で向き合い座る俺たちの前に、いつものように美しい膳が運ばれた。

 白く小さな猪口に注がれた果実酒を口に運び、俺は小さくため息をついた。


 離宮からの帰りの垓の上でも、俺は視線を伏せたまま顔を上げることができなかった。瑞穂もまた俺の横で静かに視線を前へ向けたままだった。

 瑞穂からは、俺への落胆や腹立たしさのような気配は一切感じない。もう長年の付き合いだ。俺が一旦考え込むと長時間くよくよするタイプなことは、彼もよく知っている。

 それでも——これからの齢分と新たな星での再スタートに、俺も間違いなく喜ぶはずだと、瑞穂はそんな想像をしていたんじゃないだろうか。

 そうできない自分自身に、歯軋りが出る。


 香り高い金柑酒のまろやかな甘味も、今は味気ない水のように喉を落ちていく。

 ぐちゃぐちゃと自分の中に溜まっていく苦しさに、新たなため息が漏れた。

 向かい側に座る瑞穂が、俺の様子に淡く微笑んだ。

「旭。そう気に病むことはない。

 このような大仕事を二つ返事で引き受けることの方が、むしろ軽薄であろう」


「……」


「そなたは、いつも真っ直ぐな気持ちで物事を考える。

 そなたが真剣に向き合って出した答えならば、私は心穏やかに聞くことができる。

 焦らずとも良い。そなたの気持ちが決まるまで、じっくりと考えてほしい」


「——俺って、とんでもなく自己中なやつだったんだな。

 ここにきて気づくなんて」


「どういう意味だ、旭?」

 とうとう漏れ出した俺の呟きに、瑞穂は静かに問いかける。


「真っ直ぐな気持ちで物事を考えたりなんて、俺はこれっぽっちもできていない。

 俺は、瑞穂がまた神になるのが、嫌なんだ」


「——……」


「人間の世界で瑞穂と再会できて……瑞穂が神の座を降りて、人として一緒に暮らせて、俺はこれ以上なく幸せだった。

 瑞穂は、いつでも俺のそばにいてくれた。巨大な世界のために身体を張る神なんかじゃなく……人の世での瑞穂は、俺だけの瑞穂だった。

 夏祭りの夜店で一緒にたこ焼き食べたり、寒い日に二人用の小さな鍋つついたり、休みの前日に飲みすぎて翌日怠くて二人で好きなだけゴロゴロしたり。

 そんな些細な一つ一つが、言葉にできないほど幸せだった。

 残酷な神の身勝手な振る舞いに身体中傷を受けたり、何日も目を覚まさなかったり——あんな瑞穂を見るのは、もう耐えられない。

 星の守の城へ任務に出かけて、その夜にぐったりとした姿で垓の背からずり落ちてきた瑞穂の姿が、今も頭から離れない。尋常じゃない色の目で俺の方を向いた、あの時の恐ろしさが——

 そんな瑞穂の苦しみを、手も足も出ずに傍で見ているだけなんて……そのうち気がおかしくなるんじゃないかと、どうしようもなく怖いんだ」


 一旦堰を切れば、本心は止まることなく口を突いて出る。

 呼吸を乱しかけた俺の肩を、瑞穂の腕が優しく引き寄せた。


 無言のままの瑞穂の胸に強く額を埋め、俺は残りの言葉を吐き出す。

「そんなに長い時間なんて、なくてもいい。いずれ別れなければならないとしても、瑞穂と二人で小さなことに笑い合えるなら、俺はそれがいいと……

 まじで、神様のパートナーなんて器じゃないんだ、俺」


「——良い。旭」

 顔を上げられずにいる俺の背を包み、瑞穂が小さく呟いた。


「そういうそなたを、私は愛しておる。

 細やかで温かく、一つ一つのことに笑ったり怒ったり、涙を流したり……神の世では感じることのないまま流れていく些細な感情を丁寧に拾い上げるそなたに、私は救われた。

 だからこそ、私はそなたを神の世へ招き、ここからも寄り添い続けたいと、そう願った。

 されど、神の世の残酷さを、それほどまでにそなたに耐えさせていたとは……

 そなたの苦しみに気づけなかったこと、許してほしい」


 俺を覗き込むようにして、瑞穂は柔らかく微笑んだ。

「そなたの本意、確と受け止めた。

 されば、私もこの先のことを考えねばならぬな。

 そなたなしで新たな星の神となるか、神の座に着くことなく下界へ転生するか——

 下界の花や鳥に生まれ変わり、何を悲しむこともなく、何にも煩わされることのない生を味わうのも良いやもしれぬ」



 瑞穂の水の瞳の奥を、微かなさざ波がよぎっていく。

 その波立ちの意味に、気づかないわけがない。

 瑞穂の藤色の羽織の袖を、俺はきつく握りしめた。









 その夜。

 床に入っても眠気は全くやって来ず、増していくばかりの胸の苦しさに俺はとうとうもぞりと起きあがった。

 静かに襖を開け、欄干へ出た。

 月の光が回廊を青白く照らしている。

 春が近いが、夜の空気は冷たい。ぶるりと身体が震えるが、むしろそういう辛さを自分に味わわせたい気分だった。


 月を見上げ、冷えた風に吹かれていると、背後から静かな声がした。

「旭様、眠れぬのでございますか」

 振り向くと、黒い羽織袴に身を包んだ男が膝をつき、静かに額を伏せている。


「あ……ごめん、鴉。起こしちゃった?」

「いいえ、私も少し仕事をしておりましてな。妻へ届いた書状などの改めでございます」

 すっと立ち上がった鴉は、昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて俺を見た。

「みつきさん、立派な雨神様になって頑張ってるんだね」

「はは、もともと男勝りなたちですしな。はっきりと事を断じ周囲を率いる仕事が性に合うのでございましょう」

「鴉も、昔よりもどっしり落ち着いたよね。もともとイケメンだったけど渋いダンディーさが増していい男っぷりが充満してるし」

「さように褒めていただけると、居心地悪うございます」 

 下界の言葉をガンガン混ぜ込んでも、鴉はその意味を当然のように理解できる。昔から不思議と下界情報通な男である。

「和穂くんも元気一杯でめちゃめちゃ可愛いし。勉強もすごく良くできるって、いつも瑞穂が褒めてるよ。まさに順風満帆だね」


 静かな面持ちで俺の言葉を聞いていた鴉は、少し寂しげに微笑んだ。

「……神の伴侶とは、そう容易な仕事ではありませぬ」


「……」


「冬から春へのこの時期、雨神は次第にこなすべき仕事が増えてまいります。そして春夏秋と、繁忙期には一度任務で出かければ妻は何日も城へは戻れませぬ。更には、傲慢な神から理不尽な任務を強要されることも多く……梅雨時や野分のわき(台風)の季節のみつきの疲労困憊ぶりは痛々しいほどにございます。

 漸く城へ戻っても和穂に会わぬまま床に入り、早朝から出かける日も少なくありませぬ。和穂は明るく振る舞っておりますが、母親を恋しがる気配がありありと感じられるのです。

 私もできる限りのことをしておるつもりではありますが、なにぶん限界があり……

 ——旭様が、少し羨ましゅうございます」

「羨ましい?」

「はい。

 旭様は、瑞穂様との齢分を約束された稀有なお方だからでございます」


「……」


「神の世でも、齢分を行った夫婦の前例は数えるほどしかございませぬ。されど、齢分の儀を受け伴侶となった方々は、皆優れた力を持って主たる神を支えたと伝えられております。

 齢分により寿命と力を分け与えられた伴侶は、半神に近い存在となり、より強力に神と寄り添い末長く支えることが可能となるからでございます。それだけの力を持てば、他の神への影響力を得ることはもちろん、主人である神の危機を救うことも可能となりましょう。

 私とみつきは当然ながら齢分は行いませぬ故——私の伴侶としての力不足が、年々歯痒くてなりませぬ」


 齢分により、伴侶に与えられる力の大きさ。

 それほどに大きな力を分け与える覚悟で、瑞穂はあの梅酒に渾身の呪力を込めたのか。


「……それ、知らなかった。

 今、初めて聞いたよ」


 思わず、目の奥がどうしようもなく熱く突き上げた。


「……どうして、瑞穂はそんな大切なことを、俺に何も話してくれないんだろうな……」


 俺の様子に、鴉は優しく微笑んだ

「かような話を聞かせて、貴方様に無理な決断を迫りたくないのでございましょう。

 貴方様も瑞穂様も、あまりにお優しい方ですから……

 されど、本当に大切なことは、互いに包み隠さず言葉を尽くさねば、夫婦はうまく行きませぬ。このことだけは、ゆめゆめお忘れなきよう」


「うん……本当にそうだな」


 目から溢れ出すものを手の甲でぐしぐしと拭い、俺はみっともなく泣き笑った。


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