黒衣の男(二)
「う、嘘だろノヒン!? 僕やその子を見捨てるのか!? 薄情者! 君には人の心がないのか! その筋肉はなんの為にあるんだ!」
ヴァンガルムが必死に叫ぶが、ノヒンは振り返らずに「あばよ、わん公。いい飼い主が見つかるといいな?」と言って、ひらひらと右手を上げた。
「──って本当に帰すわけねぇだろぉが馬鹿が!」
ゴロツキの一人がナイフを抜き、無防備なノヒンの背中へと振り下ろす。が──
「……あばっ!」
その腕は肘から先ごと吹き飛び、鈍い音を響かせて壁に叩きつけられた。見れば顎から上も抉れたように消失している。どうやらノヒンが反撃したようだが、あまりの速さに何が起きたのかが誰にも分からない。
いつの間にだろうか、ぬらぬらと血に塗れたノヒンの鉄甲。黒錆色の無骨なそれは、血に彩られて色を濃くしていた。「遅せぇ」と吐き捨てるように言ったノヒンがゆっくりと振り返る。
訪れたのはしばしの静寂。この静寂を作り出したのはノヒンであり、また破るのもノヒン。
「大人しくしてればよかったのにな。俺に敵意を向けるからだぜ? どうする? 続けるか?」
ごくりと、ゴロツキたちの息を呑む音が響く。その圧倒的な存在感からだろうか、語るノヒンの体からは、ゆらゆらと黒い霧が滲み出しているように見える。
「……う、うわぁー!」
恐怖に駆られたゴロツキの一人が、壁に立てかけられた剣を手に取り、狂ったようにノヒンへと襲いかかる。
「だから遅せぇよ」
ノヒンが振り下ろされた剣を片手で掴むと、バキンと鈍い音を立てて刀身がへし折れた。その折れた刃先を、流れるような動作で奥の店主へと投げつける。刃先は店主の頭蓋を貫通し、血と脳漿を撒き散らした。絶命した店主の手にはボウガンが握られ、ノヒンに照準を合わせていたようだ。剣を振り下ろした男も、ノヒンの鉄甲を纏った手に貫かれて絶命。
崩れ落ちる死体からは、決壊した川のようにびしゃびしゃと血が流れ出ていた。
「な、なんなんだ! なんなんだお前は!」
「う、うわぁー!」
「こ、殺せ! 殺しちまえ!」
訪れた狂騒と怒号。
酒場にいたゴロツキたちが一斉に武器を手に取った。二階からも仲間が現れ、その数は三十を超えるだろうか。
「ちっ」
静かなノヒンの舌打ち。
「めんどくせぇ。まとめてぶった斬ってやるよ!」
ノヒンが身体をひねり、右手を左の腰に下げた鞘へと伸ばす。鞘の入口は少し特殊な形をしており、手のひらが入るくらいに広い。見た限りでは空の鞘だ。そこへノヒンの右手が差し込まれた。
──ガチン。
響いたのは金属音。
ノヒンがふっと短く息を吐き、勢いよく右手を引き抜いて横薙ぎに払う。すると飛び掛かって来ていたゴロツキたちの胴体がまとめて両断された。
横薙ぎにした勢いのまま、左手も右の腰に下げた鞘に入れる。
──ガチン。
再び響いた金属音。繰り出される横薙ぎの一閃。
まるで紙細工のように千切れ飛ぶ体。
噴水のように吹き上がる血飛沫。
ノヒンの鉄甲からは血に塗れ、両刃で肉厚、幅広の剣が伸びていた。手の甲に刃が固定される特殊な武器のようで、形状としてはグラディウスのようだが、長さはバスタードソード程はあるだろうか。鉄甲と同じように、黒錆色の剣だ。
「……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
獣のようなノヒンの咆哮。
殺意を帯びた声が血の臭いを纏わせ、びりびりと空間を圧する。力強く踏み込んでの斬、斬、斬。
逃げ場のない暴力はまるで死の濁流のようで、次々とゴロツキたちを飲み込んでいく。
そんな渦巻く暴力の只中、少女を縛る縄に噛みついていたヴァンガルムが、「うへぇ、相変わらず人間離れしてるよ。僕より獣らしいじゃないか……。くわばらくわばら」と、目の前の光景に小さく肩を竦めた。
「わ、悪かった! 悪かったから殺さ……なぐしっ!」
「ゆ、許してくれ! たの……むべら!」
ゴロツキたちの命乞いも意に介さず、黒錆色の獣が命を喰らう。
「謝るくれぇなら俺に敵意を向けてんじゃねぇよ」
──斬。
最後の一人を縦に両断したノヒンが、ぬらぬらと剣に纒わり付く血を振り払う。その身体からは、やはり黒い霧が揺らめいていた。
先程までの喧噪が嘘のように、酒場には血の滴る音だけが残る。
「おいノヒン! さすがにやり過ぎじゃないのか!? 途中から降伏して命乞いしてたぞ!」
ヴァンガルムがノヒンに向かって吠える。敵意を向けてきたとはいえ、そのあまりにも無慈悲な戦いに対しての抗議。
「うるせーよわん公。俺は俺に敵意を向ける奴を叩き斬った。それだけだ」
「て、敵意なんて途中からなかったじゃないか! 君は無抵抗の人間を殺したんだ! 生きていたら悔い改めて更生するかもしれないだろ!」
「へー、更生したら罪は消えんのか? 泣いて謝ったら全部なしになんのか? じゃあ謝ってやるよ。すまん殺して。悔い改めるから許してくれ。これでいいか? 許されるんだろう?」
ヴァンガルムが耳をぴくりと動かし、顔をしかめる。
「き、君ってやつは! もう知らない! 勝手にしろよ! 僕はこの子と一緒に行く! 人でなし! アホ! アホ筋肉!!」
「元から勝手にしてるさ。よかったな? 可愛らしい飼い主ができて」
そう吐き捨てるように言ったノヒンが、少女を
「やめろよノヒン! 怯えてるじゃないか! それに余計なお世話だ! 後悔なんてするわけないだろ! 行くよ! えーと……」
「マ、マリルです……。あ、あの……」
マリルと名乗った少女がノヒンを見つめ、何か言いたそうに口篭った。ノヒンはそんなマリルに冷たい視線を投げつけるだけで、そのまま酒場から出ていってしまう。
「な、なんだよあいつ! マリルもあんな奴に感謝しなくていいからね!」
「で、でも……」
「まさかあんな冷たいやつだとは思わなかった! あんなのはもう人じゃない! 獣だよ獣!」
「そんなこと、ない」
「マリル……?」
ノヒンの立ち去った入口を、じっと見つめるマリル。マリルはヴァンガルムに聞こえないほど小さな声で、「勝手なことしてごめんなさい」と呟いた。
「そ、それよりマリル。家は?」
「家は、ないんです」
「え? 家がない? じゃ、じゃあ親は?」
「パパとママ、私の目の前で殺されて……」
マリルはそこまで言うと、その紅石英のような瞳に涙を溜めた。ヴァンガルムが申し訳なさそうに尻尾と耳を垂らす。
「辛いこと思い出させてごめんね。でも困ったな……」
「ご、ごめんなさい……」
「い、いや! マリルは謝らなくていいよ! そういうことなら明日にでも領主様のところに行こう! 確かここの領主様は孤児院の運営に力を入れてる人格者だ! ノヒンとは大違いのね!」
「う、うん……。でも、あのね……」
続く「ノヒンさんは」というマリルの言葉を、ヴァンガルムの「でももへちまもない!」という声が掻き消した。
「とりあえず今日はどこかの納屋でも探して忍び込もう! こう見えて僕は鼻が利くんだ!」
「こう見えて?」
「そう! こう見えて!」
ヴァンガルムが得意げに鼻をふんふんさせると、「そのまんまじゃない」とマリルが笑いだした。
「やっと笑ったね」
「え? あ、うん。なんだか可笑しくて。ありがとうヴァンちゃん」
「ヴァンちゃん?」
「ヴァンガルムってなんだか長くない? ガルちゃんの方がいい?」
「えー? どっちも威厳を感じないなー。まあでも、ヴァンちゃんでいいよ。ヴァン君って呼ぶ人もいるしね」
「よろしくね。ちょっと頼りないわんちゃん」
「任せとけ! ……って今わんちゃんって言っただろ!」
「ご、ごめんごめん。ふわふわもこもこで、ヴァンガルムだと名前負けしてるなぁって」
「い、いじるなよ! 僕は気高き孤高のヴァンガルム! 泣く子も黙るんだぜ!」
「えいえい」
「や、やめろって! やめ……く、くぅーん……」
マリルがヴァンガルムの喉元をつんつんすると、飼い慣らされた犬のようにお腹を出して転がった。
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