Depth11 オルカ

 今2人がいるのは心海のDepth15だ。Depthは心海における単純な深度も表しているし、そこに生息する心海魚の危険度もおおよそ合致している。Depth10~19は中級とも呼ばれ、この場所に出る心海魚たちは、そのほとんどがバディ能力と同じようになにかしらの特殊な能力を保持している。彼らは浅い層にいるものより単純に知能も高い。攻撃や接近方法もバラエティに富んでおり、狩人としてのレベルも格段に上がっているのだ。

 

 その上ダイバーたちは、深く潜れば潜るほど”心圧”と呼ばれる圧力がかかり、精神への大きな負担を強いられることになる。ここDepth15においては、一般人であれば一瞬にして自我が崩壊してもおかしくはない。それほどの心的な負荷だ。


 実際に優音も、到着してすぐに胸が詰まり、ぞわぞわとした不安感がせりあがってきた。彼女は一般的な人間よりも心海適性はかなり高いのだが、それでも不快な身体感覚が押し寄せてくる。さらに、その不快な感覚を本能が身体から取り除こうとしているのか、常に吐き気やかゆみなどに襲われた。極度の低酸素状態にいるかのごとく、場所自体が容赦なく意識を奪おうとしているようにも感じられる。「これ以上の深層は人間の領域ではない」そう神にでも言われているような気になってくる。


「佐久間さんは……Depth40まで行ったことが有るんですよね?」


 正式な記録ではそうなっていたはず……優音は苦し気な表情を浮かべて尋ねるが、対する佐久間の方はと言えば周囲を丁寧に観察し、普段の様子と何も変わらない。いや、「この辺りは廃病院のようになっているのですね……興味深い」などとむしろ地上にいるときよりも楽しそうな様子であった。そして、一旦の安全確認が済んだらしく、爽やかな笑顔で振り向くと答える。


「そうですね。ただ実は、発表されている私の最高到達深度は正確な数字ではありません。本当に最も深く潜ったのは……あれは事故のようなものでしたが……推定でDepth50以上でしょうか。ふふふ……あれは人間の領域ではありませんね。生きて帰れたことは幸運だったとしか言えません」


「Depth……ごごご、ごじゅうっ!?」


 優音は思わず声に出して驚いていた。かかってくる心圧は単純な正比例ではないと聞く。深くなればなるほどに、まるで倍々ゲームのように精神への負荷は増すというのだ。いったいどれほどの……それは彼女の想像力の限界を優に超えていた。


「残念ながら二度と潜ることはできないでしょうね。まるで神話の世界に迷い込んだような体験でした。人間とはどれほどちっぽけな存在なのか自覚させられましたよ」


 そう語る彼はなんだか少し楽しそうだった。深淵を覗く者だけが見られる風景……それがどんな場所なのか優音は少しばかりの好奇心はあるものの、自分とは無関係にも思えた。Depth15ですら苦しい現状を鑑みれば妥当な判断だと言える。


「……さて、時間も限られています。少しだけレクチャーをしましょうか……といってもコツのようなものです。櫟原ひらはらさんは基本がしっかりとできていますから、慣れとちょっとした応用をマスターすれば上級アッパークラスにはすぐに潜れるようになれますよ」


「よろしくお願いしますっ!」


 そうして佐久間が教えたのは以下のようなものだった。まずは基礎的な知識として、健康管理がもっとも大事であるということ。地上での栄養価の整った食事、適度な運動、良質な睡眠の重要性だ。結局のところ地上での健康状態が心的負荷の許容量を大きく左右するのである。これは意外に心海界隈では見落とされがちなことだった。


 あとは心息の消費を抑え精神の落ち着きを保つ独特な呼吸法「凪の呼吸」。これは佐久間が独自に編み出したという呼吸法で、腹式呼吸と腹圧呼吸を組み合わせ、身体の適度な脱力と臍下せいかへの力の集中を行うというものらしい。これには優音も苦戦し、最初はかなり意識してさえ難しかった。だが、少しの間この呼吸をおこなえただけでも心息の消費は目に見えて改善した。


「すごいですっ!」


 優音は目をキラキラとさせて佐久間を見る。


「その呼吸を無意識にできるようになればかなり深く潜れるようになりますよ。身体と精神は不可分です。今日はそれを意識的に行いながら、戦闘を見ていてください。では移動しましょうか。周囲の警戒はしつつ、呼吸は止めないでくださいね」


 佐久間は優しく笑いかけると、優雅な足取りで歩きだした。今見ると確かに彼は、体に無駄な力みが一切なく、常に呼吸も心も穏やかに見える。洗練されているとはこのことだろう。優音はその姿をしっかりと見据えつつ後ろについて歩き出した。


 ――


「……いましたね。奴はこちらに気づいていません。本来ならこのまま遠距離用の狙撃銃などで討伐してしまうのですが……それじゃ意味がありませんからね。わざと物音を出してみましょう。中級ミドルクラスになると賢いですから、何か能力を使ってくるかもしれません。後ろにいてくださいね」


 そう言うと佐久間はコツコツと心海魚へと近づいていった。それは体長170センチほどでノコギリザメのような見た目をしている。心海魚にしては小柄だ。少しして足音に気づいたらしいそのサメは、白眼の部分が真っ黒に染まる。そして鳴り響く大きなモーター音と同時に、刃の部分がチェーンソーのように回転し始めた。奴はその推進力を利用しているのかは分からないが、かなりの速さで向かってくる。

 

「なるほど、面白いですね」


 途中までまっすぐに突進してきたサメは急に顔の向きを変えると、佐久間の前方5メートルほどの辺りでいきなりその刃を地面へと突き刺した。突如、大きなノイズと共に佐久間の足元から巨大になった回転刃が突き出す。彼はそれを後ろに飛び退って躱すが、その深海魚はその攻撃をしたまま突進してきた。「流石に普通の武器では壊せそうもありませんね」だが、彼は特に焦る様子もない。軽い足取りでその攻撃を避けつつ何やら呟いている。


「オルカ、来てください」


 彼のそばに現れたバディはシャチのような姿だった。だが、その模様は白と黒が流動的に揺蕩たゆたっており、まるで一昔前のスクリーンセーバーのようである。そして、その黒い部分がアメーバのように集まると、驚いたことにそこからさらにもう1頭が分裂して生まれた。最終的には3体、床を除く彼の三方を囲むようにして位置している。


「さて、硬度を試してみましょうか。『Altarnateオルタネイト:ソード』」

 

 佐久間が告げた瞬間、右手側にいたシャチの姿が、漆黒の刀身と真っ白ななかご(刀の持つ部分)を持つ刀へと変化した。それはスッとひとりでに彼の手に収まると、回転刃を真正面から切り伏せる。横からの鮮やかな太刀筋を食らった心海魚の刃は、ガラスでも割れたかのように甲高い音を立てて断片が飛び散った。


「ふむ、やはり中級はこの程度……あまり面白くありませんでしたね」


 佐久間は興味の薄れたように呟くと、左手の指でくいと合図をする。そして、能力があっさりと破られて一瞬動きの止まった心海魚は、左側にいたもう1頭のオルカによって一口で食いちぎられた。Depth15と言えば優音でも苦戦は強いられるはずだが、あまりにもあっけない。


 これはあまり参考にならないかも……優音は呼吸に意識を向けつつ感じていた。


「おっとすみません……少しあっさりと倒しすぎましたね。最後にあと1匹探してみましょうか」


 彼は振り向いて笑いかける。


「そ、そうですね!あまりにも華麗な戦いで参考になりませんでした!えへへ……」

 

 優音は正直な感想を漏らし、頭を掻きながら笑う。だが、その形作った笑顔は一瞬にして崩れた。突如として怖気が走ったのだ。後ろから誰かに……。この感覚は……何?それは遥か昔、初めて心海に潜った時のように彼女の身体を硬直させた。でもなぜ?その疑問は一瞬にして氷解する。


 彼女の真後ろにそれは居た。その形状はあまりに奇妙だった。不可解なほどに口だけが異様な発達を遂げている。横幅2メートルはあるかと思われる巨大なその口内には、細かい歯がビッシリと敷き詰められていた。その顔に比して体は長細く、ウナギか何かのようである。中央にある目がぎょろぎょろと優音を捉え、口を広げた姿は不気味に笑っているようにも見えた。


「ありえない。ノイズもしなかったのに!」彼女は咄嗟に逃げようとしたが、なぜか動くことができない。首だけを振り向いた視線にある口の中。それは無数の歯ではなく、こちらを掴むように伸びる人間の手だった。うようよとイソギンチャクの触手のように蠢くその手が彼女を捉えていたのである。


「この個体……中級ミドルクラスじゃありませんね」


 しかし、その口に飲み込まれたと思った直前、佐久間の刀によって蠢く手は切断されていた。その手からは人間と同じように赤い血がぼたぼたと流れ、その心海魚は少し後退する。彼の両脇にいたオルカたちは追撃を加えようと迫るが、その心海魚は床を抜けて深い層へと逃げ帰ったらしい。「行きなさいオルカ」そのうちの一頭にそう命じて、優音の肩に優しく手を置くと聞いた。オルカはノイズを発しながら床をすり抜けていく。


「大丈夫ですか?傷はありませんか?」


「はいっ!問題は……ありません!ですが、心息を大きく削られました……長くは居られないと思います」


 優音は肩を落として返事をする。自分の弱さが少し歯がゆかった。


「少し油断しましたね。あのフクロウナギに似た心海魚は推定Depth20以上……上級アッパークラスでしょう。ノイズを上手く消していましたし、何より慎重で賢い。まさかこの低層に現れるとは……何か妙ですね。すぐに倒して帰還しましょう。どうやらオルカがあの個体に嚙みついたようです」


 そう言うと彼はさらなる能力を発動した。


Altarnateオルタネイト:ポジション」


 そう彼が告げた瞬間に、そばにいた一頭のオルカが消え、元居た場所には心海魚に噛みついた別のオルカが現れた。どうやら彼ら同士の居場所を瞬時に入れ替えたらしい。自在な変形に、位置の入れ替え……ほかにも能力はあるのだろうか。いずれにしてもかなり汎用性の高いバディ能力と言えそうだった。


 噛みつかれて暴れるその心海魚は、突如として場所が変わったことに一瞬の戸惑いを見せた。しかし、すぐに状況を把握したのか、口から溢れる無数の手を佐久間に向かって勢いよく伸ばしてくる。


 ――だが、その手は何も掴むことはなかった。優音には目で追いきれないほどの手数をもってして、その魚は鮮やかに切り刻まれていたのだ。無数の腕からは血しぶきが飛散し、本体も細切れの肉塊になっている。


 佐久間はかなりの返り血を浴びていたが、表情1つ変えずにオルカに手を触れて歩いてきた。そして、優音に向かってその血まみれの手を伸ばす。


「さあ、帰還しましょう」


「は、はいっ!」


 あまりにも流麗で無駄のない動きに、優音は呆気にとられていた。手に付いた血のことは特に気にした様子もなく、その手を握る。


帰還ジャンプ


 体にするどく食い込んでいた圧力が抜けていく感覚とともに、彼らは地上へと帰還した。


 これが”最果ての三傑”の実力……彼女はいまだ、その圧倒的な力の前に少しばかり放心していた。あまりにも遠い背中だ。彼のようになれるのだろうか……。


 戻った優音はふとあまり呼吸に意識が向けられていなかったことに気づく。さて、この新しいルールを身体にインストールしなくては。

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