Depth8 覚悟
「ジ……」
「
草場の声を遮って太陽が冷たく告げる。草場は「んなこたぁ分かってるよ」と言いたい気持ちを抑えた。すでにナイフの刃先が少し喉に触れていた。なんと言っても、生殺与奪の権利を握られているのだ。下手なことは口にできない。少しでも動けば殺すというのは冗談ではないようだ。よく研がれたサバイバルナイフ……感情のこもらない声……。殺し屋として伊達なわけではないらしい。彼は目線だけを右下に向けてその手を見た。太陽の手は黒い墨で濡れている。なるほど、彼は心の中で合点した。ただの透明化じゃねぇってわけだ。
草場は心海魚との戦闘の最中も足音や水の波紋には気を配っていた。それでも奴はいつの間にか後ろに現れていたのだ。敵の能力を決めつけるのは浅はかだったと少し後悔はしつつも、彼はすぐに思考を切り替える。
「ジャンプなんかしねえよ。俺が言おうとしたのはジョーの事だ。お前さん、ジョーを追ってるんだろ?」
喉に当たっていたナイフの刃先が少し離れる。人の感情というのは細部に宿るものだ。黙っている太陽を尻目に草場は話をつづけた。
「大切な人間が殺されたか?恋人……?親友……?いや、家族……か?」
「黙れ。俺の心息を削ろうとしても無駄だ」
「俺にも家族はいるさ。いや……正確には”居た”だな」
「……」
草場は唯一の情報源である太陽の右手や声から反応を伺った。声にまじった少しの淀みと沈黙、また、右手から力みが抜けていたのを草場は見逃さない。奴は十中八九、家族をジョーに殺されている。そして、能力はおそらくこちらの認識に作用するタイプのものだ。幻覚かあるいはこちらの五感を歪めるか……。そうでなければ、足音すらしなかったことや、墨を浴びていてもこちらからは見えなかったことの説明がつかない。
「ははっ、復讐ってわけか?だがお前だって人を殺しているだろ?奴と何が違う?」
今度は逆にナイフを持つ手に力が入り、小刻みに震えていた。おそらく太陽自身は気づいていないだろう。
「俺はアイツとは違う。快楽のために人を……殺したりはしない」
「なるほどねぇ、それはご立派だな。じゃあお前は何のために
太陽の呼吸が早くなり、さっきよりもあからさまに手が震えているのが分かる。
(もう一押しってところだな)
草場は畳みかけた。
「さあ!俺も殺せばいい。お前の復讐という快楽のためにな。そうさ……ジョーとお前は似た者同士。お前に殺された奴にも家族は居たかもしれないんだ。俺にだって娘と奥さんがいる。俺がいなくなれば泣きわめくだろうな。そして、2人も仲良く俺たちみたいに心海落ちってわけだ……。さあ、やれよ。それがお前の望みなんだろ?」
草場は大げさに手を天に仰いで告げたが、太陽の手は動かなかった。彼はゆっくりと振り返る。
「どうした?動いたら容赦なく殺すんじゃなかったのか?」
そこにいたのは、暗い目を鋭く睨みつけているが、なるほどどうして唯の若造だった。おそらく20代前半。黒髪に黒い目で体躯は細い。黒のコートだから目立たないが墨を全身に受けている。すぐさまナイフを草場の首元に突きつけ直すが、やはり迷いが見えた。それに、息も上がっている。心海にいるだけでも心息は消耗するのだ。これだけ長時間滞在していれば嫌でも息は苦しくなってくる。
「所詮その程度の覚悟……ってわけか!」
草場はそう言った直後、ナイフが握られた右手首をつかむと、すぐさま金的を放った。だが、太陽は驚きに目を見開きつつも即座に反応し、その蹴りをつかまれた手の方に避けながら回り込む。そして、掴んでいる草場の左手を引っ張りながら足をかけ、彼の身体は宙で半回転した。
投げ飛ばされた草場は地面に背中から打ち付けられる。だが、その右手にはいつの間にかコルトが握られていた。そして、トリガーがひかれた。コルトの体内に残っていた水の弾丸が放たれる。
長い戦いの最後に起きた一瞬の攻防だったが、ついに雌雄は決した。
太陽は草場の手にバディが収まるのを見逃してはいなかった。彼は草場の両手を封じながら馬乗りになり、再びナイフを突きつけた。だが負けたはずの草場はニヒルに笑っていた。
「はっはは、俺の負けだな。煮るなり焼くなり好きにすりゃあいい。やっぱ、こういう激しいのはおっさんにはキツイな」
「わかった……好きにさせてもらう」
太陽は息切れしているが、その目に迷いらしきものはなかった。そしてバディのロイを呼びよせて言い放つ。
「
体が浮かび上がる感覚と共に、2人はその態勢のまま地上へと戻った。その場所は太陽が潜った地点、つまり彼の部屋だ。太陽はすぐに草場のマスクを奪ったあと、自分のマスクも脱ぎ捨てる。草場は小ぎれいに口髭を整えた長髪の男だった。覇気はなく、少しだらしない顔つきではあるが、ある程度身だしなみに気は使っているらしい。その顔にはやはりニヒルな笑みを浮かべている。
「ヒダカさんよぉ、どいてくれねぇか?逃げるわけじゃねぇ。俺じゃあお前さんには勝てねぇってわかったからな。全部話してやるよ……その代わり、見逃せ」
最後の言葉だけは真剣な顔つきだった。太陽は少し沈黙を挟んだのち、ゆっくりとその体をどけた。草場は「よっこらせ」と言いながらあぐら姿で座りなおす。ベッド以外に家具のない簡素な部屋だ。もしかしたら日常的に住んでいる場所というわけではないのかもしれない。仮住まいの1つと言ったところか。
「水あるか?……心配すんな、飲みてぇだけだよ。
太陽は怪訝な顔つきをしたまましばらく睨みつけていたが、ニヤニヤとした笑いが返ってくるだけだった。確かに逃げる気はなさそうだし、先ほど身体チェックはしたが武器のようなものは携行していない。仮に逃げられたとしても身体能力や地の利(土地勘)的にも問題ないと判断し、キッチンの方へ向かう。
「ちなみに、酒がありゃあ最高なんだが……」
太陽はそんな草場の声を無視してグラスに水道水を注ぐ。逃げるようなそぶりはない。そのままグラスを受け取った草場は、ごくごくと勢いよく喉を鳴らし、はぁとため息を吐いた。
「さて、何が聞きたい?」
「あんた、依頼主に殺されるぞ?」
「おいおい……それが最初に聞くことかよ……まあ、それは問題ねぇさ。俺はこう見えて慎重な男だからな」
「そうか、ならいい。その依頼主は誰だ?」
「もう少し心配してくれてもいいんだぜ?」
「無駄話をする気はない」
草場はつまらなそうにため息を漏らし、「知ってるだろ?」と前置きをしてから言った。
「オトヒメってやつだ。なにやら因縁があるんじゃねえのか?」
太陽はしばし考えこんだ。名前は聞き覚えがあるが、”因縁”などというのは思い当たらない。
「……どうも反応が薄いな。『絶対に殺せ』って言われたぜ?……まあ、俺は仕損じたけどな……ったく笑えるぜ」
草場は少なくともこの仕事についてから、失敗したことはなかった。無理だと思ったものは最初から受けなかったし、殺しにおける失敗はほとんどの場合”死”を意味する。相手に殺されるか、依頼人とその取り巻きに殺されるかだ。そんな世界で6年以上生き残ってきたのである。今回の敗北は、彼にとってある種の解放だった。持ち続けていたプライドはいつしか自分を縛り付けていた。だがそれは、もはやどうでもいい。そう吹っ切ることができた。もともと失敗=死だと思っていたことも大きい。一度死んだという気になれば、人生はどうということはないように思えた。
そんなわけで、負けたのに上機嫌な草場は自分の過去を語り始めた。そこそこ良い大学を出て真面目に大手企業で働いていたこと、28歳で結婚し29の時に娘が生まれたこと……そして、会社での事実上のリストラから離婚、心海に沈んで何とか這い上がったこと。太陽は相槌すら挟まずにただ聞いていた。ひとしきり話を終えた草場は立ち上がって勝手に水を汲む。
「根が優しい奴だとか真面目な奴ほど病んじまう。まったく、この世はままならないよな」
そう言って草場はシンクに突っ立ったままグラスを少し傾けて水を飲んだ。
「あんた、人を殺すのは好きか?」
太陽は唐突な質問を投げかける。彼は心海の中で言われたことを思い出していた。それは、彼自身がずっと迷っていたことだった。自分の目的のために人を殺すこと……それはジョーと同じかもしれない。
「正直なところ……俺は嫌いじゃねぇ。ハンティングに近いかもな。最初の内は倫理観にとらわれて、まともに人を撃てなったよ。だが、いつからか、仕事だと割り切るようにした。お前さんはどうなんだ?ま、言わなくてもわかるがな。俺を生きて返すような甘ちゃんだ」
「俺は……悪人だったら躊躇なく殺せる。だけど、時々迷う。俺の覚悟が甘いから……」
「お前はジョー以外殺すな。知ってるか?人生はジョーを殺しても続くんだぜ?」
口ごもる太陽を遮って草場は告げた。一瞬、微かにだが太陽の目に少しだけ光が差したように見えた。ジョー以外を殺さない覚悟……それが本当に正しいのか、まだ彼には分らない。それに、彼は人を殺す以外の生き方を知らなかった。
「実を言うとな、俺はこの仕事を引退することにした」草場は半ば楽しそうだった。そして、すっと息を吸ってから恥ずかしそうに言う。
「前から決めてたんだよ、もし失敗しても生きてたらもう一度人生をやり直すってな」
「そうか……ならもう殺り合うことはなさそうだな」
「ま、なんかいい仕事でもあったら教えてくれ。前科持ちのおっさんでも入れるクリーンな職場な」
草場はそう言って屈託なく笑う。太陽は、そんな姿が少し羨ましかった。だが、その気持ちを覆い隠すために、ぶっきらぼうに告げることしかできなかった。
「ジョーについて知ってることを話したら帰れ」
草場は髪を掻きあげて、グラスを流しに置いた。そして、太陽の目をしっかりと見据える。
「ジョー。奴は何かデカいことを企んでる。昔までは猟奇的な単なる殺人大好き野郎だったが、今は何かの意図で動いているのかもな。バックに誰か付いている……だとよ、オトヒメの代理人の言葉から読み取れたのはここまでだ。ま、とにかく……」
そう言って一呼吸置くと、草場は地上に帰ってから一番まじめなトーンで告げる。
「気をつけろ。俺から言えるのはそれだけだ……悪いな」
彼はそのまま玄関へと向かった。陽はすでに沈み、外は暗闇に包まれている。
「あんたも……死ぬなよ」
「お前、やっぱ殺し屋向いてねえよ」
ガチャリと閉まる音と同時に、草場は振り向くこともなく言葉を残した。太陽の心の中に芽生えた迷いは、その声に反応して、反響しながらしばらく頭に残り続けていた。「ずっと復讐のために生きてきた。だけど……」彼はそんな迷いを捨て去ろうとベッドに横たわる。とにかくオトヒメとかいう奴を探す。今はそれだけを考えることにした。
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