第7話 藤堂

朝のオフィス。


窓際から差し込む光が会議室のガラスを反射し、いつものように始業を告げる。


藤堂圭吾は、部下たちのデスクに視線を走らせながら、静かにコーヒーを口にした。


営業課長・水城悠人。


そして、その近くで明るく振る舞う滝沢美沙。


表面上は穏やかに、けれど、その瞳は二人のわずかな表情の変化も見逃さない。


玲奈が自宅を出た夜、何があったのか、すべてを知っているわけではない。


だが、今、藤堂の中には確信めいたものがある。


この二人には何かある——いや、何か「やましいこと」がある。


「おはよう、水城。今期の見込み、午後に確認させてもらうから、少し数字詰めといてくれ」


「はい、わかりました」


いつものように丁寧に返事をする悠人。


何も知らないふりをして、藤堂はわずかに微笑んだ。


そして、数分後。


廊下ですれ違った滝沢に、あえて軽く声をかけた。


「滝沢。少し、時間あるか?」


突然の呼びかけに、美沙が目を丸くする。


いままでほとんど直接話しかけられたことがなかった藤堂からの指名に、彼女は明らかに浮き足立っていた。


「はいっ、もちろんです」


気合いの入った声とともに、藤堂のあとをついてくる。


部屋に入ると、ドアが静かに閉まる。


「急に呼び出して悪い。ちょっと気になることがあってね」


「はい……?」


美沙がわずかに警戒するのを感じながら、藤堂は、何気ない表情で机の上のスマホを操作する。


「実は最近、社内に匿名の通報があった」


「匿名……ですか?」


「水城が不倫しているという内容だった。相手は書かれていなかったけど、あまりいい話じゃない」


沈黙。


美沙の目がわずかに泳ぐ。


表情は笑っていても、その手が緊張からか、スカートの裾を無意識に指先でつまんでいた。


「ええ……そうなんですか? 知りませんでした」


涼しい顔でそう言いながらも、美沙の声はほんのわずかに高かった。


「佐橋のこともある。彼女は君の親友だったね?」


「はい! だから、私……放っておけなくて。藤堂部長、何か協力できることがあれば、言ってください」


藤堂は彼女の演技めいた台詞に何も言わず、ただ一つ頷いた。



「怜奈は?」


悠人から帰りに来てほしいといわれた美沙は、開口一番にそう悠人に尋ねた。

「帰ってくるわけないだろう?」

リビングのソファに浅く腰を掛け、悠人は缶ビールを開けながら、美沙に向かって気安く笑いかけた。

「どこにいったのかしらね」

ホテルにでも行ってるのだろうか、美沙はそう口にした。

「別にどこでもいいだろ? この家の半分は怜奈が支払ったけど、離婚すれば俺のものになるし……な? 美沙、ここに引っ越して来いよ」


(この男、本当に……バカなのね)


美沙は缶ビールを持つ悠人の手元をちらりと見て、作り笑いを浮かべる。


その笑顔の裏で、冷めきった視線が悠人を突き刺していた。


どうでもいい。

そもそも、悠人なんて最初から眼中になかった。彼はただ、玲奈を引きずり落とすためのコマでしかない。


「でも……。玲奈、今ごろどうしてるのかしらね?」

唇の端をほんのり上げて、甘えるように言葉を落とす。

「さあな。あんなかわいげのない女、帰ってこなくていいよ。離婚届も今日出してきたし……これで、美沙とも結婚できる」


「…………はぁ?」


瞬間、笑顔が氷のように固まった。

その変化に気づかないまま、悠人は呑気にビールを喉に流し込んでいる。


(この間抜け……)


美沙は立ち上がり、ゆっくりと悠人を見下ろす位置に立った。


「……美沙? どうしたんだよ? それが望みだったんじゃないのかよ」


「違うわよ」


その声は、先ほどまでの甘さとはまるで違った。低く、冷たい、鋭利な刃物のような響き。


「玲奈が簡単にひとりになれたら——苦しまないで済んじゃうじゃない」


「……え?」


ようやく悠人が、自分がとんでもない地雷を踏んだことに気づいたのか、顔が強張った。


「私が欲しかったのはね、玲奈が“全部を失って、それでも笑わなきゃいけない地獄”なの」


「な、なに言って……」


「何も知らずに優しくして、仕事もできて、何でも手に入れて。そんな玲奈が、一番嫌いだったのよ」


悠人は、完全に声を失っていた。


自分のすぐ隣にいた女が、こんな目で、こんな言葉を吐く人間だったなんて、想像もしていなかったのだろう。


「……あんた、玲奈が私の親友だったってこと、忘れた? そんな関係の私があんたと関係を持つなんてどうしてかって思わなかった?」


「み、美沙……それは、美沙が友情よりも俺のことをって……」


「ほんと、バカね。これで私があんたと一緒になると思ってたの? 正気?」


ビール缶をテーブルに置く音が、妙に乾いて響いた。


「帰るわ」


それだけ言い残し、美沙はカツン、とヒールの音を鋭く鳴らして玄関に向かった。


一度も振り返らず、まるでそこにいた時間すら存在しなかったように。


悠人は、口を半開きにしたまま、その背中を呆然と見送るしかなかった。


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