愛をこめて復讐を

minami miki

第1話 プロローグ

 カチリ。

 カチリ。


静まり返ったダイニングに、時計の針が時を刻む音だけが響く。


目の前には、夫のために作った夕食が並んでいる。

炊き立てのご飯、湯気を立てる味噌汁、ほどよく焼き上がった魚に、ひじきの煮物。

毎日変わらない、ありふれた食卓。


けれど、ふと脳裏をかすめる。

——もしかしたら、これが二人で囲む最後の食事になるのかもしれない、と。


夫——水城悠人は、それらを一瞥するだけで、箸を取ることすらしなかった。

無言のままスマホを手に取り、指先で画面をスクロールし始める。

まるで、目の前の食事が存在しないかのように。


玲奈は、ふと視線を落とした。


桐生商事の総合職としてバリバリ働いていた頃は、夕飯を手作りする時間なんてなかった。

忙しい日々の中で、二人の時間はわずかだったけれど、それでも、夫婦として寄り添っている実感があった。


それなのに——


妊活に専念しようと考え、半年ほど前に派遣社員へ転職した頃から、いや、それより少し前から、悠人の態度は少しずつ変わり始めていたのかもしれない。


「……食べないの?」


声をかけるのが、怖かった。

自分でも驚くほど、小さな声になってしまう。

慎重に、夫の機嫌を伺うような、怯えた響きを持つ声。


「は? お前、まだ分かんねぇの?」


苛立ちを隠そうともしない低い声が返ってくる。


スマホから目を離さぬまま、悠人は冷めた視線を玲奈に向けた。

その目に、もはや優しさの欠片すら残っていない。


「お前が作る飯、食う気しねぇって言っただろ」


無機質な言葉が突き刺さる。


「でも、ちゃんと作ったし……悠人が好きなものばかり……」


「はぁ? 好きなもん? 俺がいつ、こんなもん好きだって言った?」


夫は冷笑しながら、食卓を見下ろした。

炊き立てのご飯、焼き魚、味噌汁——かつては「玲奈の作る飯が一番うまい」なんて言ってくれていたはずなのに。


あの頃の言葉も、あの頃の笑顔も、今はもう跡形もなく消え去ってしまった。


「……もういい、食欲ないわ」


夫はスマホを手にしたまま、椅子を乱暴に引いて立ち上がる。

ネクタイを無造作に緩めながら、リビングのソファにどかりと腰を下ろした。

目の前の食事には目もくれない。


玲奈は、そっとテーブルの端に置かれた結婚指輪に目を落とす。

夫はもう、それをつけることすらしていなかった。


——どうして、こんなふうになっちゃったんだろう……


目の奥がじんと熱くなる。


だけど、涙を流したところで、誰が気にしてくれるだろう。


結婚したばかりの頃は、こんなんじゃなかった。


「お前、仕事もできるのに料理までうまいとか、マジで完璧じゃん」

「何言ってるの、そんなことないよ」

「いやいや、玲奈と結婚してほんと良かったって思ってるよ」


彼はそう言って笑っていた。


その笑顔が、今も脳裏に焼き付いている。


なのに——


「……玲奈、お前と結婚したの、ほんと間違いだったわ」


唐突に、夫の声が現実へ引き戻す。


「子供もできねぇし、女として終わってる。お前、マジでなんの価値があんの?」


グサリと胸を抉る言葉。


——もう、限界だ。


玲奈は静かに箸を置き、席を立つ。


「どこ行くんだよ?」


夫の声が背中に突き刺さる。


「……ちょっと、外の空気を吸ってくる」


「は? 夜にふらつくとか、みっともねぇな」


玲奈は夫の言葉を振り払うように、玄関へ向かった。


この家の空気がもう、息苦しくて仕方がなかった。


(もう、ここにはいられない——)


靴を履き、ドアを開ける。


冷たい夜風が、火照った頬を冷やした。


行く当てもない。


だけど、どこかへ行かなきゃ——。


玲奈の足は、自然と近くの公園へと向かっていた。



 *

ベンチに腰を下ろし、深く息を吐く。


夜の公園は静かだった。街灯の薄明かりがぼんやりと足元を照らし、風が木々の葉を揺らす。

遠くで聞こえる車の音がかすかに響き、かえってこの場所の静けさを際立たせていた。

寒さが体に染みる。だが、それ以上に、心の奥が凍えきっていた。


(どうしたらいいんだろう…)

携帯を取り出し、画面を見つめる。手がかじかんで、上手く操作できない。

連絡先のリストを開く。スクロールする指が、途中で止まる。

誰かに助けを求めたい。でも——

画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

こんな夫婦のことを話せば、両親だって友人だって心配をさせてしまう。

玲奈はそっと画面を閉じ、膝の上に携帯を置いた。


夜の冷気が頬を刺すように冷たかった。


——だけど、ここにずっと座っていたところで、何も変わらない。


玲奈はゆっくりと立ち上がった。

 

 *

玄関のドアを開けた瞬間、家の中の空気がどこか重く感じた。


静まり返ったリビング。


次の瞬間、低い声が耳に届いた。


「……うん、アイツ、相変わらずウザいよ。マジで早く片付けたい」


足が、止まる。


——アイツ? 片付けたい?


何の話をしているのか、すぐには理解できなかった。


「大丈夫、大丈夫。お前が言う通りに動いてるからさ……」


夫の声。


鼓動が速くなる。


玲奈は、そっと廊下の陰に身を潜めた。


「うん……わかってるって、美沙。お前がいなかったら、俺、もっと早くぶっ壊れてたわ」




 美沙——。


 聞き間違いじゃなければ、それは会社の同僚の名前であり、私の親友だった人。


 心臓が跳ね上がる。


(まさか、悠人と美沙が……?)


 玲奈の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていった。


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