第52話

 久良岐家の門を、そこから望む庭を、美月は立ち尽くしたまま見つめていた。

(敷居が、高い……)

 連絡もせずに戻ってきてしまったけれど、屋敷の前に来て怖じ気づいている。

 ここはもう、美月の帰るべき場所ではないのかもしれない――。


「まあ、奥さま!」

 門前に立つ美月を、庭に出た家政婦のタキが見つけて駆け寄ってきた。

「タキさん……あの、ご無沙汰してしまって……」

「ほんとうでございますよ! お帰りなさいませ。さあ、どうぞお入りになって」

 お帰りなさいと言われ、少しだけ緊張がほぐれた。

 洋館の玄関に足を踏み入れると、猫が美月の足に擦り寄った。懐しく愛しい温もりだ。

「ミィ、元気だった?」

 柔らかな体を抱き上げると、小さなザラつく舌が美月の顎を舐めた。

「タキさん、ありがとう。ミィの世話をしていてくれていたのですね」

「もちろんでございますよ。それに、じつは旦那さまも可愛がっておいでなのですよ」

 煌が猫を可愛がる姿を想像して、美月は思わず微笑んだ。

 もしこの家を出ることになったなら、猫を連れていくべきなのか、残していくべきなのか。悩ましいところだ思うと、今度は涙があふれそうになった。


「旦那さまは?」

「早ければ夕方にお帰りになられますよ。内緒にしておいて驚かせてさしあげましょう」

 それがどんな驚きなのか、美月は少し怖い気もしたけれど、ここはタキに従うことにした。


 その日、あたりがすっかり暗くなったころ、煌は帰宅した。

 玄関で靴を脱ぎ、無言のまま階段を上る。

「お帰りなさいませ。すぐ夕食になさいますか?」

「ああ、着替えてくる」

 タキの問いかけに短かく返し、二階の自室に向かう。

 着替えて戻った煌は、食堂に入り、目を見張った。

 そこにはふたり分の夕食が並べられ、美月が席についていたのだ。

 見開かれた目が、二、三度まばたきを繰り返し、

「あ……あ、おか――」

「お帰り」の言葉を、煌は呑み込んだ。

 それが意味することを考え、美月の心は重く沈んだ。

 それでも、煌の姿に美月は目を細めた。このとき煌が身に着けていたのは、美月が縫ったアンサンブルだった。

(着てくださっていた)

 それだけで、嬉しかった。

 たとえこれからの話し合いで何を言われるにしても、これだけで美月の想いは報われる気がした。


 煌は、何も言わずに椅子に座った。

 久しぶりのふたりでの食事は、気まずくてぎこちないものだった。

 もともと食事中は会話の少ない煌だが、ことさら視線を落とし、美月を見ようとしない。

 食後のお茶もそこそこに、煌は席を立ってしまった。

 黙って二階の自室へ向かう煌を追って、美月も階段を上る。

 そして。


「旦那さま」

 美月は思い切って煌を呼び止めた。

 煌は足を止めたが、振り返ってはくれなかった。

 だが、ここで臆してはいられない。

「お話を、したいのです」

 煌が、ゆっくり振り返る。

 その顔は、美月以上に不安そうで……美月は二の句を継げなくなった。


 しばし無言で立ち尽くし。

 やがて煌は自分の寝室のドアを開け、美月を振り返った。

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