***




「そこは長靴だろ!」


 急な大声に意識が飛び跳ねた。

 心臓の拍動に合わせて全身の血管がドクドクと動いている。

 ニコルが目覚めたのは、見知らぬ部屋だ。


(ここは?)


 周囲には誰もいない。

 どうやら数秒前まで、柔らかく温かなベッドの中で泥のように眠っていたらしい。慌てて上半身を起こそうと寝台に手をつけば、触れるはずのシーツの感触が遠い。違和感に目をやると、両手に薄手の白い手袋がついていた。手袋の内側が少しヌメついていたので外すと、なんだか薬臭い。

 両足にも妙な締め付けを感じハリのある掛け布団をまくると、知らぬ間に青と白の縞模様のパジャマを着せられていた。両足首から下には包帯が巻いてある。


 布団からそろりと出て、部屋全体をもう一度、見渡した。


 飴色の木目が艶やかな寝台。クリーム色の絨毯。丸みのある葉模様の上品な壁紙。重厚な書斎机の上には三枚スクリーンのPCが載っていて、どうやら、そこから人の話し声がする。


 ふらつきながら近づき画面を覗くと、幾つかのタブが開いていた。その全てに、見知らぬ場所が映っていた。

 天井の端から見下ろしているような視点のそれに、ニコルはカッシアンの屋敷にあった監視カメラを思いだす。このPCには監視カメラからの映像が集約されているのだろうか。


 屋外と思われる映像に犬を連れた人間が映っていて、ニコルはぎょっとして出窓に飛びついた。ドレープカーテンを捲り、日差しに透けるレースカーテンを捲り、外を見る。


 丘の上に建つ家の上階から人の住む街を見下ろしたら……ああ、こんなも絵になる風景なのかとニコルは嘆息した。

 人間が暮らす街をこんなに近くで見たのは、初めてだ。

 あっちの道路は不規則にうねっていて、こっちの道路は定規で引いたような格子状だ。真四角の敷地の中に、赤茶色の屋根の数々が木々を挟んで隣りあっている。民家の庭先のバスケットゴールに太陽の下の人々の営みを感じる。


「まったく信じられない。あんな薄着で子供を――」


 PCから響く音声に、再び意識が吸い寄せられた。


 (ドイツ語だ……)


 カッシアンの屋敷ではハンガリー語を話していた。それ以外の場所、例えばあの宴など外部のヴァンパイアが集まるような場所では必要に応じて英語を。ここは一体、どこなのか。ますます訳がわからない。

 ドイツ語は英語よりもっと苦手だ。

 ニコルはそばにあったマウスを使って音の聞こえたタブを拡大した。何も見落とすまい、聞き漏らすまいと画面にかじりつく。


「本当に着せるべきはシルクのシャツにジャケットなんかじゃない。もっと分厚いコートだよ。防寒着こそ必要だろ? 真冬にあんな薄着って、フィンランド人だってシャツ一枚で雪の中を走るのはサウナの後ぐらいなのに、なんであいつらにはそれがわからないんだ。無駄に生きてるだけでアホなのか?! あの子の足を見ろ。あちこち皮がずる剥けて、凍傷にならなかったのが奇跡ってくらいに酷い状態だった」


 一息でそこまで言い切ったのは、メガネをかけた明るい茶髪の男性だ。二十代半ばくらいの、線の細い人。スマートな印象を受ける容姿だが、部屋の中を歩き回り身振り手振りで怒りを露わにしている。


(この人が怪我を手当してくれたのか?)


 ローテーブルを囲うように配置されたソファーには、他に複数人の男女が座っている。その中に目を引く銀髪の男性がいた。

 カメラをズームできないか、感覚でマウスのスクロールホイールをいじる。何度か試すと狙い通り拡大できた。


 耳にかかるほどの長さのゆるやかに波打つ銀髪を、左目の上あたりで二つに分けて流している。すっと通った鼻筋も、ペールブルーの瞳も、硬質で涼やかだった。見る者がはっと振り返るような冴え冴えとした美貌だ。森の中のアトリエで出会った彼で間違いなかった。長い足を組み替え、男は静かに口を開いた。


「ダニ。あれは生かすことを目的とした場じゃない」


「『死装束しにしょうぞくだから綺麗にしてあげましょう』って? もうほんと心底、嫌だ。……ヴェイルがあの場にいてくれて、よかったよ」


 日没後の森の深い闇は、ヴァンパイアの姿を同胞から覆い隠す。バウトゥーラは首を食いちぎられようと肌を暴かれようと、全ては暗がりに飲まれ、命さえ丸ごとなかったことになる。

 ダニと呼ばれたメガネの彼は、バウトゥーラの境遇に同情してくれているんだろうか。

 ヴェイルと呼ばれたヴァンパイアと、おそらく人間であるダニ。二人はどうして一緒にいるんだろう。気づくとニコルは無意識に、再び二人へとカメラを寄せていた。


「目が覚めたみたいだぞ」


「「え?」」


ダニとニコルが声が重なる。

ペールブルーの瞳が監視カメラを……いや、ニコルを見ている。


「ヴェイル。なんでわかるんだ」


「レンズの焦点距離を変える音がした」


「「そんなの聞こえるの?!」」


 (どうしよう、こっちに来る!)


 部屋の出入り口に走り寄ったものの、木製の扉は頑丈に施錠されている。すぐに壁を隔てた向こうから、こちらへ向かって走る複数の足音が聞こえた。

 他にどこか出口はないか。ニコルは先ほどの出窓へ走り寄り、カーテンを払った。窓枠の中央についた取手を押し広げると冷気が舞いこんでくる。風に顔を逸らすと、書斎机のペン立てに刺さる万年筆が目に入った。何もないよりマシだ。ニコルはそれを右手に構えた。扉が開く。

 

 ヴェイル、ダニ、それに少し遅れるように老年の女性が室内に入ってきた。ダニと老婦人が開け放たれた窓を見て叫ぶ。


「お、落ち着いて!僕らは君の敵じゃない。早まるな!」


「あらまぁ、どどど、どうしましょう」


 包帯を巻いてくれた人が手当てした後でニコルを害するだろうか。でも、恐怖心から右手を下ろせない。また一歩、窓枠に近づくと、手がヌルついていたせいで万年筆が絨毯に向け滑り落ちた。


「あっ」


 落ちる万年筆を目で追う。

 急に首元が詰まり、自分の足がグンと床から離れるのが見えた。


「あっ、わっ!」


 気づくと一瞬でヴェイルに襟首えりくびを摘み上げられていた。そのまま、片手で運ばれて最初に目覚めた寝台に落とされる。必死でベッドから飛び出そうとするニコルをダニと女性が二人がかりで抱きとめ押し戻す。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 英語で何度も何度も言い聞かせられ、背中をさすられる。

「大丈夫。大丈夫」「怖いことは何もないよ」「まだ、歩いちゃ駄目でしょう」。二人がニコルの足の包帯を確認する。「血は出てないみたいだわ」「手袋はどこへやったの?」「ああ、あったあった」「ほら、手を出して」。

 ややあって、掛け布団の下に放られた白手袋が再びニコルの手に優しく嵌められる。


 多分、この人達は怖い人じゃない。本能的にわかっている。それでも、身体はまだ走っていたときのように、ドクドクと動悸がしていた。

 そんなニコルの様子を見てとって、ダニは「落ち着くまで喋らなくていいよ」と背中をさすり続けた。

 しばらくして、なんとか三人に謝罪と感謝を伝えられる状態まで自分を落ち着けられたニコルに、「坊っちゃまもヴェイルさんも私も、あなたが元気ならそれで良いですよ」と女性が微笑む。


「まだ色々と不安だろ? 僕の説明、一旦、聞いてくれるかな? その方が安心できると思うし。英語で話すからさ」


 ダニの言葉にニコルは頷いた。深く深呼吸する。

 ニコルはベッドヘッドに背中を預け、スツールを運びベッド脇に腰を降ろしたダニの方を向いた。ヴェイルは少し離れたところに一人、立ったままだ。


「よし、ええと。まずだけど、ここはオーストリアだ。君がいたルーマニアの北の森から車を運転して七時間くらいのところで、ウィーンの13区って場所。ここは僕の家ね。ここまでOK?」


 まさかルーマニアからハンガリーを越え、オーストリアまで来ているなんて。


「で、僕はダニ。美大の学部四年生で絵画修復師になるために勉強中。こっちの人はギッツィさん。うちの家族のお手伝いをしてくれている人なんだ。僕にとっては第二のお母さんみたいな人。君が前いた場所には居ない顔ぶれだろ? どうだ?」


 「人間だから安心してほしい」という意味合いだろうか。

 ニコルはヴェイルに目を向けた。彼にも赤い血潮が流れているが、人間よりも血管がすぅっと皮膚近くに走っているような、それでいて温度のない捉えどころのない肌をしている。他の部分は雪のように白いのに、唇と目元だけが妖艶に赤みを帯びているのだ。

 ニコルの視線に気づいたダニが、ヴェイルの袖を引っ張ってベッドの側まで引き寄せる。


「こっちは僕の友人のヴェイル。君を助けるためにここまで連れてきたのが彼だから、ヴァンパイアだけど怖がらなくて大丈夫だよ。ね、君の名前は?」


「ニコル」と答えたかったのに、かすれた声しか出なかった。それを聞いたヴェイルが、これまで黙っていたのに急に口を開く。


「それは遺伝子モデルの総称だろう。お前の名前は?」


 どうしてそんな妙なことを聞くんだろう。

 咳き込みながら戸惑っていると、ダニが水の入ったグラスを手渡しつつ助け舟を出してくれた。


「あ、じゃあ、ここでは『ニコちゃん』って愛称で呼ばせてもらおう。良い?」


 その方が呼びやすいならそれがいい。別に嫌がる理由もない。 

 ニコルという名前に支障があるなら、自分は今日からニコになれる。礼を言いグラスを返すとニコは頷いた。

 それよりも気になることがある。


「あの……もし、知っていたらでいいんです。僕の他に逃げてた人たちがどうなったかご存知ですか?」


「俺が助けられたのはお前だけだ」


「ニコちゃん三日も寝たままだったんだよ。ヴェイルはあのとき偶然、あの森に居たんだ。みんなを助けることはできなかったけど、どうか責めないでやってほしい」


「せ、責めるなんて。それはもちろん」


 (……そうか。三日経ったんだ)


 あと三日だけでも生きるんだと、まるでそれだけが命綱のように必死にすがって森を走った。今、自分はヴェイルのお陰で十六歳になって生きている。


「あれ……えっと、あれ?」


 でも、自分一人だけだ。一人だけ生き残ってしまったのか? 

 安心なのか、後悔なのか、罪悪感なのかわからない。そんな大事なことも判別できずに、気づけば涙が落ちていた。ジャケットを渡したあの子は無事だろうかなんて、別に親しいわけじゃなかったのに……しかもこれでは、ヴェイルを責めているように見える。

 恥ずかしい。申し訳ない。見られたくない。なのに涙は止まらず出てくる。


 「あらあら、まあまあ」と言いながら、ギッツィがニコの頭を胸に抱き寄せた。そこからダニの腕の中に引き渡され、背中をとんとんと優しく叩かる。その後で今度はどういう流れなのか、ダニによってヴェイルの腕へ預けられた。

 ぽすんっとヴェイルの胸元に額がぶつかり、ニコはギクリと身体を強ばらせた。ヴェイルの身体も同じように強張ったのを感じる。所在しょざいなく固まった彼の腕はニコに触れない。

 振り払いはされないものの、気まずい瞬間が流れた。とてもじゃないがニコもヴェイルの顔を見ることができない。


 「ほら、鼻をかもうね」と再びダニの手によってベッドヘッドにもたれさせられるまでニコは身動きがとれなかった。


(なんだったんだろう。今のは)


 ただ、言われてみると確かに鼻が出ていた。ダニがティッシュを躊躇ためらいもなく鼻に当てようとするので、慌てて受け取って自分でかんだ。


「すみません。子供っぽくて」


「全然。ニコちゃんって今、幾つ?」


「十六になりました」


「あ、そうなの?! 童顔で可愛いから、てっきり行っても十五歳くらいかと思ってた」


 ニコ自身、昔は”大きなニコル”のことを文字通り背の高い大人おとなびた人だと思っていた。けれど、自分が彼の歳になってみてわかる。

 ニコルはどちらかというと小柄で、華奢だった。


「そっか。でも、まだまだ守られるべき大事な年頃だよ。僕らが君をここに連れてきた理由にも繋がるんだけどさ、ヴェイルと僕たちは君みたいな子を守りたいんだ」


飲み物バウトゥーラを?」


「うう〜ん、その呼び方は好きじゃないんだけど、まあ、そんな感じ。ヴァンパイアにゆかりがあって、でも居場所に困っている子たちのお家をつくりたくて。この家は僕の家族の持ち物だけど、別の場所にその子達が暮らす家があって……あ、そうだ!こんなこと急に言われてもとは思うけど、何か好きなこととか、やってみたいこととかある?」


「やってみたいこと?」


「そ、ニコちゃんはもう自由の身なんだ。好きなときに好きな場所に行って、好きなことができる。その上で何かこう、やってみたいこととかある?」


"その上で" の言葉に口籠る。好きなときに、好きな場所に行けること自体が「やってみたいこと」では駄目だろうか――


「……よく、わかりません」


「人の指を噛んでおいて何もないのか」


「ヴェイル、言い方」


 あざけり? 呆れ? どっちだろう。ヴェイルの言葉には、あるいは両方が含まれているのかもしれなかった。普段はもっとマシなのに、言葉がうまく出てこない。このヴァンパイアを前にすると緊張するのだ。

 何か答えないとと焦った結果、ダニの後ろに飾ってあった壁の絵画を見て、ニコは「絵が好きです」と答えた。嘘ではない。カッシアンの屋敷での唯一の趣味が絵を描くことだったから。でも、思いつきで目に入るものを言ったと思われたかもしれない。

 

 「絵、いいね!僕たちも大好きだよ。ヴェイルなんて僕のお祖父様の代からうちのホテルで置く美術品の目利きをしててさ。いや、気が合うね! ニコちゃんがどんな絵を描くのかまた教えてほしいし、芸術方面でもそうじゃなくても、これからやりたいことをいっぱい見つけていこう」


 それから、「成人まで衣食住が補償されること」、「条件はあるものの、大学に進学する際には奨学金の支援ができること」、「他の子も、そうやって自分なりに進路を見つけていること」、「なんかこの説明、事務的に聞こえるかもだけど僕らは君のこと新しい家族と思ってること」がダニによって説明された。


 「あと、落ち着いたら他の子供たちに会いに行こう。もうすぐクリスマスのお祝いがあるし、歳も近いし、きっと友達ができる」


「僕もそちらで暮らすことになりますか?」


「いや。お前には俺たちと一緒に、しばらくここに留まってもらう」


 ヴェイルとダニが目を見合わせた。

 何か事情があるのだろうか。ダニの表情が一瞬、陰った。


「ニコちゃん、もうちょっと話聞ける?」


「それじゃあ、私はスープを温めてきましょうかね。きっとお腹が空いたでしょうから」


 ギッツィがスツールから立ち上がると、ダニも腰を浮かせた。


「僕も手伝うよ。ニコちゃんはヴェイルから聞いておいてくれる? 今回のことはこいつが一番の事情通だから、僕から話すよりわかりやすいと思う。少ししたら戻ってくるから」


 パタンとドアが閉じ、部屋にはヴェイルと二人きりだ。さっきまでダニが座っていた場所にヴェイルが腰掛ける。


「この建物に見覚えはあるか?」


 間髪入れずに話に入ってくれたことに、ニコは感謝した。

 話す話題が決まっていれば間を埋めようと焦らなくて済む。自分に関することではなかったから、幾分か緊張も和らいだ。


 渡されたのは先ほど、監視カメラ映像を映していたPCモニターのうちの一枚だ。本体から取り外すとタッチパネルモードに切り替わり、単体でもPCの役目を果たす。


 そこには、一枚の画像が表示されていた。

 豊かな自然に囲まれた大きな……白い、四角い建物だ。何かの企業の工場だろうか。背後には濃淡の違う緑の稜線があって、建物がどこかの山々の麓に建っていることがわかった。建物の外壁からは何本もの銀色のパイプが伸びていて、脇にくっついた大小様々な大きさの銀のタンク――貯水槽か?――へと伸びている。無機質な建物だが、陽光を弾く白い壁、銀のパイプと周囲の緑が眩しくて、どことなくヘルシーな印象さえ受けた。


「いいえ。タンクに何か書いてある。メデ……レヴラ研究所?」


「ああ。ルーマニアのカルパチア山脈の麓にあった施設だ。運営元は外資のバイオ企業で、地元住民には『遺伝病治療薬研究のためのプラント』と説明されていた。それが昨日、こうなった」


 カツンッと爪の音を鳴らしてヴェイルが画面に人差し指を滑らせる。


「うわ……これ、火事ですか?」


 山の一部がごっそり炭になっている。というより、植物が燃えてしまったせいで地表が剥き出しになり禿げているというか。

 画像の奥の方ではまだ、空に向けて白煙が上がっている。


「火事というより、爆破だな」


 一昨日の深夜、メデレヴラ研究所にとある自然保護団体が押し入った。団体は以前から、自然保護区域にプラントを誘致したことに強く反発し、それを黙認した地元有力者たちを激しく糾弾していた。けれど訴えは無視され、研究所は山を削り敷地を拡げていくことになる。

 ついに堪忍袋の緒が切れた活動家たちは、人手が薄くなる夜を狙い複数のナパーム系爆薬を仕掛けて研究施設を爆破。爆発と同時に火の手が上がり、冬の乾いた山林にあっという間に燃え広がった。延焼は止まらず、昨日の時点でおよそ80ヘクタールが焼失している。


「『メデレヴラ研究所は全焼し、地元消防によれば爆薬の総量はTNT換算で50kg以上にのぼる。警察は意図的な破壊工作と断定した』とのことだ」


「あの、自然保護団体なのに森が焼けちゃって大丈夫なんでしょうか?」


 爆破の結果、研究所の敷地より明らかに多くの森が消えている。


「たまに本末転倒な阿呆もいるから一概には言えないが、俺は、活動家たちは利用されただけだと思ってる。お前が言うように、研究所への単なる嫌がらせにしては爆薬の量が多い。研究員の証言から、火元が実験設備のあるブロックに偏っていたこともわかっているし、おそらく首謀者は事前に施設の内部構造を把握していたんだろう」


「研究所の人が、犯人に情報を流していたってことですか?」


「ああ。そう考えると今回、研究所側の死傷者がゼロなのも説明がつくしな」


 ヴェイルが言うには事件当初、研究所では通常時には見られないような不自然な夜勤の免除があったという。事件にまつわる他の記事も見せてもらった。

 

(研究所ではいつも、研究物やデータの持ち出しが厳しく禁じられていた。出入りには複数人の立ち会いと監視システムを通す必要があって……『火災発生時もそのセキュリティは機能していたと見られ、無事に避難した夜間警備員の証言からも、それが裏付けられている』ってことは……)


「狙いはこの施設が研究していた物にあった? 誰かがそれを消したくて、自然保護団体を焚きつけた?」


「そうだ。この研究所は一部のバウトゥーラの出生に関わっている可能性がある」


「一部のバウトゥーラ……それは、僕とも関係がありますか?」


 モニターを受け取って、ヴェイルは静かにニコと視線を合わせた。透き通った氷河色の瞳は、まるで人の心の内さえも見通してしまいそうだ。

 ニコは自分が生み出された研究施設の場所を知らない。もしここが、ニコの生まれた場所なら、"ニコル”を作るために必要だったDNA情報や、冷凍保存された細胞などが失われてしまったことになる。


「まだわからない。だけど、ここがもしそうなら、生きた肉体から改めてDNAを採取しないとクローンは作れない。お前、自分と同じ顔の人間に最後に会ったのはいつだ?」


(最後……最後に会ったのは……)


「十年前です。……で、でも、彼はもう亡くなっていて。僕の主人の屋敷にも今、僕と同じ遺伝子を持つ子はいません。なぜ主人がそうしたのかはわかりませんが」


 味に飽きて「もう、このクローンはしばらく作らないでおこう」なんて、ヴァンパイアにとっては日常茶飯事だろう。でも、そういった様々な事情の結果、今回の事件が原因で希少度が上がってしまった遺伝子があったら……それを飲みたいヴァンパイアは、きっと奪いに来る。


「可能性の話だ。あまり怯えなくていい。知っておけば自衛できるから話した。その方が、ただ訳も知らず守られるよりも生き残る確率が上がりそうだろ?」


――ただ訳も知らず守られるよりも


 (それは……ヴェイルが僕を守ってくれるって意味なのか?)


 当たり前に守る前提で話してくれるのは、なんで?

 ヴェイルの言葉が、その真意さえ見えないのにニコの心を揺さぶる。


 自分を狙うヴァンパイアは明日来るかもしれないし、二十年後、三十年後かもしれない。そもそも襲われる日なんて来ないのかもしれない。他人に警護を任せるにしても、そこまでの労力をかける理由がわからない。

 なのに、まるでそうするのが当然のように言われたことが……嬉しいのだ。だから、わからない。だから、怖かった。


「あの、僕の血を飲んでもらえませんか?」


「……は?」


 「宴に出されるくらいだから味はよくないかもしれないけど、でも、あなたに返せるものが他に思いつかなく……て……」


 彼は表情の乏しいヴァンパイアなのだと思っていた。

 でも実はそうではないと、ニコはこのとき知ったのだ。


 「やっほー。お待たせ」と声がかかって、ダニが室内に入ってきた。ワゴンの上には湯気の立つスープが載っている。ヴェイルはスツールから静かに立ちあがり、そのまま開いたドアから出ていった。


「なに、ニコちゃん。あいつなんでキレてんの? あ、そうそう。この部屋、実は僕の部屋でさあ、スープ食べ終わったらニコちゃんの部屋に案内するね。そっちにもPCあるから一緒に使い方を確認して――」



***

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