第四章 "大きいニコル"が死んだ日




 ニコと話すため、ニコルが身を屈めた。


 ニコルの焦茶色の髪はふわふわで、太陽の光で金色に透けて輝いていた。榛色はしばみいろの大きな目は水を溜めたように艶やかで――


(ああ。いつもの夢だ……)


 自分の額に手をやると、さっきヴェイルが替えてくれた濡れタオルが載っていた。気づいた瞬間、ニコの背はぐんぐんと伸びていく。目の前のニコルと同じ高さになると、彼はふっと目の前から消えた。

 気がつけば、ニコはカッシアンの屋敷の入り口に立っていた。

 背中に触れるのは、鉄のつるが巻き付いた優雅な門。正面に広がる中央庭園は、緑の盛りを迎えていた。


 夢の中はひっそりとしていて、蝶は飛んでいるが誰の姿もない。ニコは濡れタオルを右手にぎゅっと握り、歩きはじめた。目指す場所は本邸の裏にある第二離れだ。

 

 中央庭園を真っ直ぐに抜けると、翼を広げるように建つ本邸マナーハウスの玄関へと行き着く。玄関を中心に左右の棟が張り出す造りは優美だが、大きな腕に抱え込まれるような閉塞感もあってニコはこの建物が怖かった。


 左翼の背後には使用人棟が建ち、右翼からは渡り廊下が伸びて東棟へと繋がっている。さらに東棟の奥に第一離れが、本邸の真後ろ――ここからは見えない位置に第二離れがある。

 カッシアンの邸宅におけるバウトゥーラの序列は、彼の寵愛ちょうあいの度合いによって東棟、第一離れ、そして第二離れの順に高い。居室きょしつから中央庭園を望めるかどうか、そしてカッシアンに近いかどうかが、バウトゥーラたちの間で密かに競われる「格」を測る基準だ。


 ニコは七歳から八歳までを第二離れで過ごし、その後は東棟へ移された。

 それ以前の七歳までをどこで過ごしたのかと言えば、屋敷から遠く離れた場所にある準備の家プレパラトリーハウスと呼ばれる保育施設だ。バウトゥーラが、やがて来る出仕の日に備え、基礎的な知識を学ぶ場所。

 学ぶ内容は多岐たきにわたった。食事と栄養、身体の成長や管理といった生理的なこと。誕生日の数え方もここで習った。さらにハンガリー語、英語、ドイツ語。主人への従順、奉仕の作法、そして“終わりの日”について――お役目は次の自分へと引き継がれ、主人から尽きることのない愛を永遠に注がれるのだと教えられて育った。


 十人ほどの子供に対し常に大人が複数人は居たから、かなり目を配られていたと思う。教えを守れ、他者に誠実であれ、素直であれと諭されて育った。皆が幼かったから大きな争いごとも起こらない。ようは平和だった。


 けれど問題は、屋敷に上がった後だ。


 カッシアンの屋敷は、年齢も性別もばらばらなバウトゥーラが入り混じる、混沌とした空間だった。ニコのように入りたての七歳から、長く居る者では三十歳近くまで。数十名が暮らす大所帯だ。

 男子は白シャツに白いスラックス、女子は白いブラウスに白いジャンパースカート。誰もが同じ装いをしているからニコにも相手がバウトゥーラであることはすぐわかる。だけど、どんな派閥があり、誰と誰が親しく、どの先輩が怖いのか。そうした縦横上下の繋がりを見極めることがニコはとても苦手だった。端的に言えば、世渡りの要領が悪かった。


 東棟は赤、第一離れは緑とか、そんなふうに衣服が色分けされていたら楽だったのにと思う。けれど白一色にも理由があった。カッシアンが白を好んだことと、それ以上に、飲み物バウトゥーラが望まぬ怪我をしたときすぐに見てわかるよう、目立たせる意図があったのだ。

 準備の家プレパラトリーハウスと大きく違う点として、この屋敷には使用人は居ても「先生」は居ない。

 つまり、バウトゥーラを管理する大人の目がない。

 カッシアンの気に入りかどうかで屋敷内の序列が決まるから、お気に入り相手には侍従長ですら強く物が言えない。

 屋敷を追い出されずに長く血を捧げてきたバウトゥーラは当然、権力を持ちがちだし、とにかくいさかいが多かった。


 理不尽に慣れていないニコには屋敷での立ち回り方はわからない。そうして、来て早々、白シャツを血で汚す大喧嘩をした。


 目の前で小さな子が背中を蹴られていたので、「やめてください」と言った。「生意気だ」と手を出されたので抵抗し、首に絞め技をかけられ苦しかったので噛みついた。


 自分なりの正義は通したつもりでも、「あの子は野蛮やばん粗野そやだ」という噂が瞬く間に広まった。

 このときニコが怪我をさせたのは第一離れに住まうバウトゥーラだったから、向こうでもこちらでも睨まれることになる。

 とにかく味方がいなかった。

 いつかかばったはずの子にも避けられるようになり、住んでいた第二離れで孤立した。数ヶ月経つ頃には不良の烙印らくいんを押され、これには屋敷の中で恐らく一番、ニコ自身がびっくりしていた。


 準備の家プレパラトリーハウスで、あんなに朝から晩まで教わったことは、大事じゃなかったんだろうか。律儀に道徳を守ろうとしたら、空気の読めない厄介者やっかいものになってしまった。

 情勢は目に見えず移り変わる。

 この前までニコで憂さ晴らしをしていた人が急に来なくなったと思えば、主人に廃棄されて知らぬ間に消えていたり、居住地の格下げを食らって心がくじけてしまったり。でも、横のつながりのないニコにそれを教えてくれる人はいないのだ。


 ニコルと仲良くなったのは、そんな日々の中での奇跡だった。


 ある日、気まぐれでお絵描きでもしようと床に置いたクレヨンの箱が、あっちに蹴り飛ばされ、こっちに蹴り飛ばされ。アイスホッケーのパックのように床を滑っていった。ああ、またこれか。


「やめろよ!」


 自分から手を出したことはなかったが、手を出されたまま大人しく引き下がることはしなかった。殴られたら殴る。それが自分より大きい相手でも殴り返した。

 そうしなくては冗談ではなく"何か"が死んでしまう、壊れてしまうと思った。

 例え、最後に負けようが知るものか。とにかく、ただでは済まさない。必ず相手へもダメージを食らわせてやるのだという、あれは最早、執念だった。

 なんであんなに鬱屈うっくつとしていたのかわからない。この頃のニコは一度、ぷつんと行ってしまうともう抑えが効かなかった。


 たかがクレヨンを巡る争いでも乱闘は乱闘だ。

 それをニコルは、「やめて」のたった一言で止めた。

 凛とした声が第二離れの談話室に響く。

 声の主を一目見て、みんな各々の部屋へ引っ込んでいく。野次馬も喧嘩相手も一斉に。唖然とするニコに、ニコルが少し屈んで手を差し伸べた。


「大丈夫?」


 心配だ、不安だ。顔に書いてある。

 だからニコルの手をとって立ち上がった。


「……ありがとう」


「お礼を言われるのは、ちょっとね。君がこうなってるのは多分、僕のせいだから」


「どういうこと?」


 そのまま二人でソファに掛けて話をした。

 要するに――カッシアンの寵愛を一身に受ける東棟住まいのニコルには手が出せない。そのため、彼への嫉妬や苛立ちを、遺伝子元オリジナルが同じニコ相手に発散しようと考える輩が多数いたと。そして、それに気付くのが遅くなってしまったことをニコルは謝罪したかったらしい。それを伝えにここまで来たと。


 遺伝子元オリジナルが同じ子なんて年齢違いでちらほら居たから全然、気にも留めていなかった。けれど、思い返すと確かに心当たりのないことで責められたこともあったような……気がする。正直、喧嘩に必死すぎて記憶が曖昧なことも多い。自分より体格の良い相手ばかりだと気を抜いていられないのだ。


「そっか。意味がわかって、すっきりした」


 ニコルがぎょっとする。


「え? それだけ?」


「え?」


「だって間接的にだけど、僕のせいなんだよ?」


「でも、クレヨンを蹴ったのはあいつらだし。ニコルに謝られても……」


 きっかけがニコルへの嫉妬であってもそれを理由にニコを虐めるかどうかは、あの人たちの問題だ。だから、ニコルのせいではないと思う。そのまま伝えると「うーん、そういうものかな?」と彼は言った。


 それよりも、ニコが気になったのはニコルの服装だった。

 主人のお気に入りはピアスや指輪や腕輪をたくさんつけていることが多かったから、ニコルのようにこざっぱりした人がそうだとは思わなかったのだ。

 明らかに気を散らしはじめたニコを、ニコルが困った顔でたしなめた。


「でもね、殴るのは流石に駄目だよ。僕らはみんな、カッシアン様の持ち物なんだから。君にその権利はない。準備の家プレパラトリーハウスで教わったでしょう?」


 今度はニコがぎょっとする番だった。

 ここへ来て、準備の家プレパラトリーハウスの教えを真面目に覚えている人がいるなんて思わなかったのだ。

 屋敷の門をくぐった途端、みんな記憶をどこかに落っことすものだとなかば信じはじめていたのに……なんだか、この人は他と違うぞと思った。

 ニコルへの共感、仲間意識みたいなものが芽生えた。素直に「ごめんなさい」と言えたのは、きっとそのせいだ。


 ニコの謝罪を受け取って笑うニコル。それだけじゃない。彼はニコがした、これまでの喧嘩の理由を尋ねてくれた。「長い物に巻かれないのが君のいいところだね」と褒めてくれた。「君をいじめないように、みんなに言っておくね」と約束してくれた。そして、それを実行に移してくれた。


 さすがは東棟に住まうバウトゥーラ。影響力が違った。

 不承不承ふしょうぶしょうと顔に書いてあったが、不良たちもニコに手は出さなくなった。

 

 ああ、なんて過ごしやすいんだろうと思った。


 ニコだって傷つかないわけじゃない。喧嘩がしたかったわけじゃない。避けることも逃げることも許されず、本当はもう、おかしくなりそうだった。

 じっとしていても嫌なことばかり思い出してしまう。だから、絵の練習をはじめることにした。なぜ絵かというと、あれからニコの中で『クレヨンの箱』がニコルの象徴になったからだ。住む場所は違っても、会えない時間も、これを見れば彼を思い出せる。


 暴力は振るわれないものの、相変わらず周囲に避けられることは続いていた。

 だからそれを感じなくて済むようスケッチブックとクレヨンと画集を持って離れの裏のやぶの中へ避難する日々が始まった。

 この画集というのが、機動隊の盾みたいに重くて黒くて頑丈で格好良くて、最初の頃なんて開かず持っているだけでも気分がよかった。みんなが中央庭園を一番良しとする中で、ニコは裏藪うらやぶを聖域にした。


 白のスラックスはいつも雑草の汁まみれになった。

 「洗濯が大変だ」と屋敷の使用人に小言を言われてしまい、申し訳なかったので彼の古着を借りてやぶに入るときに履き替えることにした。

 それがまた、周囲のバウトゥーラの神経を逆撫さかなですることになる。「信じられない」「気持ち悪い」「カッシアン様への冒涜ぼうとく」と散々な言われようで……八方塞がりだった。

 そんなニコを、大人びていてどこか上品なニコルが見守ってくれた。

 サイズの小さい白のスラックスを持ってきて「白でさえあればまだ大丈夫だと思うんだ。要はが着ちゃまずかっただけで。汚れたらこれを僕らで洗えば全部解決できる」と言った。


 「天才だ!」


 二人で過ごすようになって、ニコルの真っ白だった肌も焼けてきた。

 そのせいでカッシアン様を悲しませたからと、途中からは二人して大きな麦わら帽子を被り日焼け止めを丁寧に塗りあった。近づくと、ニコルからはいつも優しい花の香りがした。面倒だろうにニコルはずっと、ニコに付き合ってくれた。


 彼と出会ってから、自分の考えを言葉にすることが増えた。

 ここには話しを聞いてくれる人がいる。そう信じられただけで、風船の空気が抜けていくように凶暴な衝動は収まっていった。少し前の自分が思い出せないくらいに心がいだ。

 油絵の画集を開いてはクレヨンで模写をした。絵は奥深く、打ち込めるのが楽しかった。そして絵と同じくらいニコルに夢中になっていった。


 でも、毎日気ままに彼と遊べるわけではなかった。

 当然、ニコルにはカッシアン様のお呼びがかかる。

 

 ニコルの身体だと、一度の奉仕で血液量400ml程度が限界らしい。それを超えると歩けないほどにふらつくので、カッシアンはいつも限度を見極めて足りない分は他の者から補っていた。

 血だけではなく、ニコルは身体を求められる日も多かった。

 ニコもニコルもお互いに口には出さなかったけれど、そういう日の後は二人静かに建物の陰で庭園の花々を遠くに眺め、本を読んで過ごした。

 声を出すのが辛そうなニコルと長時間話すのも良くない。それよりなにより、どこか気だるげで艶やかな彼と話すのにどぎまぎしてしまって……そんなニコに、きっとニコルも気づいていたのだ。

 だから、二人して無言で本を読んだ。

 

 あるとき、ちょっと勇気を出してニコルに聞いてみた。


「ねえ、ニコルはカッシアン様のことが好き?」


「お慕いしているよ」


「どこが好き?」


「優しいところ。自由で可愛らしいところ」


 

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