婚約破棄されたが、王子が即土下座してきた件

亜塔ゆい

第1話「婚約破棄と土下座」


 貴族社会において婚約とは、ただの男女の契りではない。

 それは家と家、国と国を繋ぐ重要な契約であり、時に一国の命運を左右する。


 そんな大事なものが、たった一言で破棄されることなど、通常あり得ない──。


 それなのに。


「リリエル・ノイ・クラウゼン。お前との婚約を破棄する!」


 ──この男は、なんの前触れもなく宣言した。


 王太子アレクセイ・フォン・ルクシオール。

 金髪碧眼、王族らしい凛々しい顔立ちを持ち、剣の腕は王国随一と称される、私の──元婚約者。


「……そうですか」


 私は淡々と答える。

 まるで心を痛めているわけでも、怒りを覚えているわけでもないかのように。

 いや、実際、怒りも悲しみもない。


 だってこれは予想していたことだから。


 ここ数ヶ月、アレクセイはどこか私を避けるようになり、明らかに心が離れていると感じていた。

 加えて最近、宮廷では「王太子殿下と侯爵令嬢の関係が噂されている」と耳にしたばかり。

 つまり──そういうことなのだろう。


 婚約者よりも、別の女性を選ぶと。


「では、正式な書面を用意してください。父には私から伝えておきます」


 私は静かに頭を下げ、立ち去ろうとした。

 だが、その瞬間。


「待て!!」


 アレクセイが叫んだ。


 ──次の瞬間。


 彼は地面に膝をつき、両手をついて頭を下げた。


「……?」


 驚いたのは、私だけではない。

 周囲にいた宮廷の貴族たちも、誰もが目を疑っていた。


 なぜなら──


 王太子が、貴族令嬢に土下座しているのだから。


「すまん!! 俺は2年後の未来から来た!! お前がいないと滅ぶ!!」


 ……何を言っているのだろう、この人は。


「…………は?」


 私は思わず問い返す。

 王太子としての威厳もなにもなく、土下座したままこちらを見上げる彼は、必死の形相だった。


「ちょ、ちょっと待ってください。もう一度言っていただけますか?」


「だから!! 未来から来た俺の記憶が、さっきの頭痛とともに上書きされたんだ!! お前を失ったことで、俺も、国も、全てが滅ぶ!!」


「…………」


 もしかして、頭を強く打たれたのだろうか。


「そ、それで……?」


「お前との婚約を破棄したせいで、全てが崩壊したんだ!! だから、婚約破棄はなかったことにしてくれ!! 頼む!!」


 王太子が、泣きそうな顔で、私の足元に額をこすりつけるようにして土下座している。


 ──静寂。


 周囲の貴族たちは、完全に硬直していた。


 無理もない。

 王太子が婚約破棄を宣言したと思ったら、次の瞬間には土下座して撤回を懇願するなど、前代未聞の出来事なのだから。


「リリエル……! 俺には、お前が必要なんだ……!! だから、行かないでくれ……!!」


 私の紫の瞳が、土下座する彼をじっと見下ろす。

 王太子がここまで恥を忍んでまで、私にすがる理由とは?


 いや、それ以前に──


「……お断りします」


 私は静かに、きっぱりと拒絶した。


「えっ……?」


 アレクセイの顔が絶望に染まる。


「未来のことは知りませんが、貴方が私との婚約を破棄すると決めたのは事実。それを今更、土下座したからといって覆すのは……私の矜持が許しません」


「そ、そんな……!!」


「それでは、失礼します」


 私は優雅にドレスの裾を翻し、その場を立ち去った。


 王太子が何か言おうとした気配を感じたが、振り返らなかった。


 なぜなら、ここで心を揺らせば、彼の言葉を受け入れてしまうかもしれないから。


 未来がどうなろうと、私には関係のないこと。

 私は、王太子アレクセイとの婚約破棄を受け入れ、新しい人生を歩むのだから。


 ──たとえ、彼がどれほど土下座しようとも。


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