哲学研究部の先輩は、今日も思考の海で戯れる

むぎ茶

第1話:トロッコ問題と、先輩の危うい微笑み

1-1

 窓際に据えられた古びた木製の机。その上に、無造作に積み上げられた書物の山が影を落としている。どれも分厚く、タイトルには見慣れない哲学書の名前が並んでいた。部室に入ると、微かに埃と紙の香りが混ざった独特の空気が鼻腔をくすぐる。


 哲学研究部——。


 その名前の割に、この部屋は特段知的な空気に満ちているわけではなかった。誰かが飲みかけのペットボトルを放置し、端の方には部とは関係なさそうな漫画雑誌が転がっている。けれど、部室の中央、ホワイトボードの前には一人だけ異彩を放つ人物が立っていた。


 東雲柚。


 彼女はチョークを持ち、ホワイトボードに線を引いていた。滑らかな動きで、迷いのない筆致。まるで何かの計画を練るように、あるいはただの落書きをするかのように、楽しげに線を描いている。その表情は微かに口角が上がっており、どこか満足げだった。


「やっと来たわね」


「一応真っすぐ来たんですけど……」


 俺は部室の扉を閉めながら、先輩の方へ視線を向けた。彼女は彼女は


「学生時代という儚い青春は一瞬で終わってしまうものよ。そう考えると5分って大きな損失じゃないかしら」


 先輩は軽く首を傾げながら、まるで当たり前のことを言うような調子で続けた。


「はいはい。すみませんでした」


「ふふっ、それでいいのよ」


 先輩は俺から視線を外すと、ホワイトボードに向かって手を動かし続ける。その様子は、何かしらの準備をしていたようにも見えた。


「……何をしてるんですか?」


 すると、彼女はチョークを持った手を止め、振り返った。


「ちょうどいいところに来たわね」


 先輩が俺に向かっては微笑えむ。その笑みは穏やかでありながら、どこか試すような雰囲気を含んでいる。

 この顔を見た瞬間、俺は「来たか」と思い心の中でため息をついた。


「三崎くん、君は選択を迫られるのは得意?」


「……どういう意味です?」


「まぁ、見てなさい」


 彼女はまたホワイトボードに向き直る。そして、その表面を指でなぞるようにして、俺の視線を誘導した。

 そこには、1本の線が描かれていた。恐らく線路だろう。

 そしてその線路は途中で分岐し、片方には5つの小さな丸、もう片方には1つの丸が書かれている。

 無知な俺でもすぐに分かった。これは有名な思考実験——トロッコ問題だ。


「透くん、ここにトロッコが走っているの。もう止めることはできなくて、このままだと5人が轢かれてしまうわ」


 彼女の指が線路の上を滑り、ゆっくりとトロッコの進行方向をなぞる。


「でもね、君の目の前には偶然レバーがあるの。これを引けば、トロッコの進路が変わって、代わりに1人だけが轢かれる仕様になっているのよ。さぁどうする?」


 先輩の視線がこちらに向く。深く澄んだ瞳が、俺の答えを待っているようだった。


「トロッコ問題ってやつですよね。何かで見たことがあります」


「えぇ。思考実験の中では定番中の定番。でも、君には選択できるかしら?」


 俺はホワイトボードに描かれた単純な線画を見つめる。たった2本の線と6つの丸。それだけのはずなのに、どこか強く胸を締め付ける感覚があった。


「……どうだろうな」


 思わず零れた言葉に、先輩は楽しそうに目を細めた。

 彼女は、俺の困っている姿を見るといつも嬉しそうだ。


「君は、5人を救うために1人を犠牲にするか、それとも何もしないまま5人を見殺しにするか。その選択を、今ここでしてみて」


 まるでお茶に砂糖を入れるかどうか聞くような、軽やかな口調だった。しかし、その言葉が持つ重みは、決して軽くはなかった。

 先輩は「はい」と言って俺にペンを渡す。自分でどっちか書けということなんだろう。

 俺は、ホワイトボードの前でしばらく立ち尽くした。

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