第12話 抽象画の考察

 午後からは美術館に行った。

 地下街でポスターを見かけたので、私は見に行くことにした。


 開かれているのは、抽象画の展覧会だった。館内は人混みで溢れ、ゆっくりと味わいながら鑑賞することは難しかった。



 絵画の前には鑑賞者の頭があり、真正面から見られない。ある人は同じ位置を占領し、いつまでも同じ絵画を眺めている。


 まるで、絵画よりも人混みを味わいに来たような気分だった。私は段々と疲れを感じ始め、やがて絵画を深く観察することを諦めてしまった。


 何十点も並ぶ絵画を素通りするばかりで、とても作品を堪能したようには思えなかった。

 充実感よりも憂鬱感が勝り、私は「早く館内から出てしまいたい」という気持に駆られてしまった。



 館内では窮屈な気分だったが、時々人のいないスポットがあり、私はそこにしばらく留まっていた。


 そこでは、じっくりと作品を見ることができた。

 私は抽象画の見方をよく知らなかったが、その絵は表立ったものよりも、裏に隠れたものを表現しようとしているように思われた。


 抽象画を見ていると、心に穴が開いたような気分にのまれた。

 秩序や伝統など形あるものへの不信感、そして無意識への傾倒。抽象画からは、そういったものが滲み出ていた。


 例えば、1つの絵を見てみても、それは本物のカタツムリを描こうとはせず、カタツムリのようなもの、あるいはカタツムリを形成している本質を描こうとしているようだった。


 その絵は、リアリズムのように殻の輝きや本体の生々しさを表現するのではなく、崩れた円形に留まり、幾何学的世界を表そうとしていた。


 抽象画は、プラトンがイデアを唱えたように、現実世界から飛躍し、別世界を描写しているようだった。

 厭世観にのまれた私にとって、抽象画は唯一の逃げ道のようにも思われた。


 抽象画は、「必ずしも物事を現実的に捉える必要はない」というメッセージを私に伝えた。

 私は抽象画を見ている間、現実のもたらした重荷が降り、幼少期の頃の無邪気さを思い出したかのような気持になった。



 もし私の人生を絵に表すならば、具象画よりも抽象画の方が相応しいのだろう。

 その絵は混沌としており、感情や思考を形にしたいという思いは微塵もない。


 鑑賞者への伝達を放棄し、ただ言語化が困難な己の世界に閉じこもる。


 まるで自閉空間のようだった。そこでは、他人の目を気にする必要はない。ただ己の感じたことを表現するだけで良いのだ。


 そこはゆりかごのように心地良い場所だった。抽象画を見ていると安心するのは、他人の目が何処にも存在しないからなのかもしれなかった。


 私は、もし現実世界から離れ、別世界に行くことができるのならば、抽象画の世界へ身を投じたいと思った。



 心の中の精神科医は、これを解離症状と言って治療せねばならないと言った。

 一方の私は、ただ今は絵画鑑賞をしているだけで、精神医学の入る余地はないと反論した。


 私の中の精神科医はため息をつき、私をじっと見た。

 私は憂鬱な笑みを浮かべ、「私に余計なことを言うのはよしてくれ」と呟いた。


 精神科医は、視界から消え去った。私は馬鹿な想像をしたものだと思いながら、美術館を後にした。

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