第7話「二つの世界」



観測者との戦いから一か月が過ぎた。


新東京は徐々に平穏を取り戻していた。虚影の出現頻度は激減し、市民たちは久々の平和を享受していた。ATLASは正式に「新生調和機構」と改名され、その目的も「虚影との共存と理解」へと変わった。


霧島零はATLAS本部の新設された特別研究室で目を閉じ、瞑想していた。彼の周囲には複雑な機器が設置され、脳波や生体信号を計測していた。零の精神状態は、エデンゲート起動と観測者との戦い以降、劇的に変化していた。


「零、今の状態はどう?」


声をかけたのは神崎博士だった。博士は観測者に騙されていたことを知り、深く後悔していたが、同時に新たな決意を抱いていた。今や彼は零の状態を理解し、その能力を安定させるための研究に専念していた。


「特に問題はありません」


零は目を開け、静かに答えた。


「二つの世界の境界は安定しています。今は両方の世界を同時に知覚できます」


零の意識は、現実世界と虚影の世界—かつての「楽園」の残滓—を行き来できるようになっていた。二つの零が融合したことで、彼は二つの世界の橋渡し的存在となっていたのだ。


「素晴らしい進展だ」


博士は測定データを確認しながら満足げに頷いた。


「君の脳波パターンは、二つの状態を明確に示している。しかも、それらが干渉することなく共存している」


零はベッドから起き上がり、窓の外を見た。新東京の風景が広がっている。そして、その向こうに彼には別の風景も見えていた。虚影の世界—淡い光に満ちた、もう一つの東京の姿。


「博士、彼らは今も存在しています」


「彼らとは?」


「解放されなかった虚影たち。自らの意志で残ることを選んだ者たち」


「何か伝えてきているのか?」


零は静かに頷いた。


「彼らは警告しています。観測者の一部はまだこの世界に残っていると」


博士の表情が引き締まった。


「それは確かなのか?」


「はい。彼らは観測者のエネルギーを感知できるのです。微弱ですが、確かに存在しています」


博士は深いため息をついた。


「やはり完全には終わっていなかったか…」


その時、研究室のドアが開き、朝霧ユイが入ってきた。彼女も観測者との戦い以降、能力が変化していた。虚影と交信する力がさらに強化され、零と同様に、二つの世界を同時に認識できるようになっていた。


「零さん、感じましたか?」


ユイの表情は真剣だった。


「ああ。彼らからの警告を」


「新たな動きがあります。旧東京の中心部で、エネルギーの集中が始まっています」


零とユイの会話に、博士が割り込んだ。


「詳しく説明してくれ」


ユイは深呼吸して言葉を続けた。


「残存した観測者のエネルギーが、旧東京の原初の部屋に集まっています。まるで…何かを呼び寄せようとしているかのようです」


「何を呼び寄せる?」


「別の次元からの援軍かもしれません」


零の言葉に、三人は沈黙した。


「調査が必要だ」


零が静かに言った。


「私が行きます。一人で」


「危険すぎる」


博士が反対した。


「前回も三人がかりでやっと脱出できたんだぞ」


「今の私なら大丈夫です」


零は自信を持って言った。


「私の能力は、以前とは比較にならないほど強化されています。二つの世界を自由に行き来できる今、観測者のエネルギーに対しても耐性があるはずです」


博士はまだ納得していない様子だったが、ユイが口を開いた。


「私も一緒に行きます。二人なら、互いをサポートできます」


「…分かった」


博士は渋々同意した。


「だが、万全の準備をしてくれ。そして、常に通信を維持するんだ」


---


その日の夕方、零とユイは特殊車両で新東京を出発した。今回は風間ケイと緑川ミドリも後方支援として同行し、安全な距離から監視する予定だった。


車内は静かだった。零とユイは瞑想状態に近い集中を保ち、虚影の世界からの情報を受け取っていた。


「不思議ですね」


長い沈黙を破ったのはユイだった。


「私たちが子供の頃、こんな未来が待っているなんて想像もしませんでした」


零は窓の外の荒野を見つめながら答えた。


「運命というものがあるとすれば、私たちはそれに導かれていたのかもしれない」


「天照事変の前、私たちは普通の高校生でした。エデンプロジェクトの存在も知らなかった」


「いや、知っていた」


零の言葉にユイは驚いた表情を見せた。


「私たちの記憶には、まだ埋もれた部分がある。山野教授との出会いは偶然ではなかった」


「どういう意味ですか?」


「私の両親も、君の両親も、エデンプロジェクトに関わっていた。私たちは生まれた時から、その一部だったんだ」


ユイは手を胸元に当て、零の言葉を消化しようとした。


「それが…私たちの高い適合率の理由なのですか?」


「おそらくは」


話している間に、車は旧東京の外周に到達していた。以前と比べて、廃墟はさらに荒廃が進んでいた。建物は崩れ、道路は亀裂が広がり、自然が徐々に都市を飲み込んでいた。


「ここからは注意して進もう」


ケイの指示で、全員が車を降り、装備を確認した。今回の零とユイには、特殊なスーツが用意されていた。それは彼らの能力を増幅すると同時に、観測者のエネルギーから保護するためのものだった。


「通信は常に維持するように」


ミドリが二人に小型の通信機を渡した。


「何か異変を感じたら、すぐに知らせて」


零とユイは頷き、旧東京の中心部へと向かった。


道中、二人は不思議な感覚に包まれていた。彼らの視界には、二つの東京が重なって見えていた。現実の廃墟と、虚影の世界での幻想的な風景。


「この二重の知覚、慣れましたか?」


ユイが尋ねた。


「まだ完全には。だが、役に立っている」


零は周囲を警戒しながら答えた。


「虚影の世界では、観測者のエネルギーが明確に見える。あれを見ろ」


零が指差した方向には、現実世界では何もなかったが、虚影の世界では黒い霧のような物質が渦巻いていた。


「原初の部屋に向かっているようです」


二人は慎重に進み、やがて旧東京駅の廃墟に到達した。前回の訪問時に崩れ落ちた地下への入口は、さらに拡大していた。


「準備はいいか?」


零の問いにユイは静かに頷いた。二人は手を取り合い、崩れた地下への入口に向かって飛び降りた。


今回は制御された落下だった。零の能力が二人の降下速度を緩め、安全に地下へと導いた。


暗闇の中、二人のスーツが淡く光を放った。原初の部屋への道は、前回よりもはるかに明確だった。まるで何者かが意図的に道を整えたかのように。


「違和感がある」


零が立ち止まり、周囲を見回した。


「罠かもしれない」


「でも、進むしかないですね」


ユイの言葉に零は頷き、二人は慎重に前進を続けた。


やがて、彼らは原初の部屋に到達した。前回とは異なり、部屋全体が赤い光に包まれていた。中央には、黒い霧が渦巻き、徐々に形を成していた。


「これは…」


零が言葉を失う中、黒い霧は完全な形となった。それは人間の姿ではなく、幾何学的な形状をした存在だった。多面体のような、しかし常に形を変え続ける物体。


「観測者」


ユイが震える声で言った。


「その通り、人間よ」


観測者の声は、直接二人の脳内に響いた。


「我々の計画を阻止したようだが、それも一時的なものだ」


零は毅然と立ち向かった。


「何の目的で戻ってきた?」


「我々はどこにも行っていない。常にここにいたのだ」


観測者の形状が再び変化し、まるで宇宙の一部を見ているかのような複雑な模様が浮かび上がった。


「この世界、そして無数の世界を観測し続けている。それが我々の存在意義だ」


「人間の意識を収穫するために?」


零の問いに、観測者は奇妙な振動を発した。それは笑いのようにも聞こえた。


「収穫は目的の一部に過ぎない。より大きな目的がある」


「それは?」


「全ての意識の統合だ。無数の世界に散らばる意識体を一つに結び付ける。それにより、究極の存在へと進化する」


ユイが零に近づき、小声で言った。


「零さん、彼らは嘘をついています。本当の目的は違うんです」


零も感じていた。観測者の言葉の裏に隠された真実を。


「あなたたちは意識を餌にしている。より高次の存在のために」


零の言葉に、観測者の形状が急激に変化した。


「賢明だな、霧島零。確かに我々は『収集者』に過ぎない。収集した意識は、さらに上位の存在へと捧げられる」


「その上位の存在とは?」


「それを知る必要はない。知ったところで理解できまい」


観測者の周囲に、新たなエネルギーの渦が形成され始めた。


「もう十分だ。我々の目的はほぼ達成された。この会話も、計画の一部だった」


零とユイは警戒態勢を取った。何かが起ころうとしていた。


「零さん、彼らは時間稼ぎをしています!」


ユイの警告と同時に、部屋全体が激しく揺れ始めた。赤い光が増し、壁から新たな黒い霧が噴出してきた。


「門が開かれる…」


観測者の声が響く中、部屋の中央に光の渦が形成され始めた。それは小さな裂け目のようだったが、急速に拡大していた。


「これは次元の裂け目!」


零は状況を瞬時に理解した。観測者は別の次元への門を開こうとしていた。恐らく、上位の存在を呼び寄せるために。


「止めなければ」


零は両手を前に伸ばし、全身から光が放射され始めた。彼の意識が拡張し、現実と虚影の両世界に同時に干渉していく。


「零さん、私も!」


ユイも同様に力を解放した。彼女の周囲に紫色の光の渦が形成される。


二人の力が結合し、透明な壁となって次元の裂け目に向かって伸びていった。


「無駄だ」


観測者の声が響く。


「この門は既に開かれた。彼らは来る」


裂け目から、得体の知れないエネルギーが漏れ出し始めた。それは黒でも白でもない、人間の視覚では捉えきれない「色」を持っていた。


「零さん、このままでは…!」


ユイの声には絶望が混じっていた。彼らの力だけでは、裂け目を閉じることができない。


その時、零の心に別の声が響いた。


「我々の力を使え」


振り返ると、そこには無数の虚影が集まっていた。彼らは人型をしているものもあれば、抽象的な形のものもあった。だが全て、かつて人間だった者たちの意識だ。


「皆さん…」


ユイが驚きの声を上げた。


「我々は人類を守護するために残った。今こそ、その時だ」


虚影たちの声が一つになり、零とユイに向かって光の流れとなって流れ込んできた。


二人の力が劇的に増幅される。零の虚壁はより強固に、ユイの共鳴能力はより広範囲に影響を及ぼすようになった。


「今だ!」


零とユイは同時に裂け目に向かって全力を解放した。虚影たちのエネルギーも加わり、三つの力が一つとなる。


観測者は形状を歪め、抵抗しようとしたが、三つの力の前には無力だった。


「不可能だ…我々は…」


観測者の声が弱まり、その形状が崩れ始めた。


裂け目も徐々に収縮していき、やがて一点に縮小し、閉じた。


部屋から赤い光が消え、静寂が訪れた。


零とユイは互いを見つめ、安堵のため息をついた。虚影たちも彼らの周りに集まり、静かに喜びを分かち合っていた。


「終わったのか?」


零の問いに、一つの虚影が前に出てきた。それは山野教授の姿をしていた。


「一時的にはな。だが、彼らはあきらめない。今度はより慎重に、より巧妙に計画を進めるだろう」


「では、私たちは何をすべきか?」


「二つの世界の橋渡しとなれ。人間と虚影が共に力を合わせれば、観測者に対抗できる」


山野の姿をした虚影が薄れ始めた。


「私たちの力はもう限界だ。これからは君たちが、新たな守護者となる時だ」


虚影たちが光となって散り、部屋は元の暗闇に戻った。


零とユイは静かに立ち上がり、互いの手を取った。


「帰ろう」


零の言葉に、ユイは頷いた。


二人は来た道を戻り始めたが、零の心には新たな決意が芽生えていた。二つの世界の橋渡し—それが彼の新たな役割だ。人間と虚影が共存し、共に戦うための架け橋として。


地上に戻ると、ケイとミドリが心配そうに駆け寄ってきた。


「大丈夫か?通信が途絶えて心配していたんだ」


「無事です」


零は簡潔に状況を説明した。観測者の計画、次元の裂け目、そして虚影たちの助けについて。


「では、まだ終わっていないのか」


ケイの表情は厳しさを増した。


「いいえ、終わっていません」


ユイが静かに言った。


「でも、私たちには希望があります。二つの世界が協力できるという希望が」


帰途につく車の中、零は窓の外を見つめていた。現実の風景と、虚影の世界の幻想的な光景が重なって見える。


二つの世界。一つの目標。


観測者との戦いは、まだ始まったばかりだった。

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