第10話 顕現せし真実の刃【前編】

 まるで水底から急浮上するように、精神の深淵から俺の意識は無理やり現実へと引き戻された。最後に脳裏に響いたのは、フォラスの冷徹な声――『さあ、行け。現実そこがお前の戦場だ』。


 まぶたを押し開ける。一瞬、自分がどこに立っているのかさえ判別できなかった。さっきまでいた、静謐せいひつでありながら歪みきった精神世界と、目の前に広がる破壊された現実との、あまりに強烈なギャップに、激しい眩暈めまいと、胃がせり上がってくるような吐き気が襲う。


(戻ってきたのか…この、地獄に…!)


 こみ上げてくる吐き気に思わずえずき、ふらついた足元を支えるように傍らの壁に手をついた。


 そこは、数時間前まで俺たちの日常があったはずのアパートのリビング…だった場所だ。ひっくり返ったテーブル、床一面に散乱する窓ガラスや食器の破片、壁には黒い焦げ跡や亀裂が無数に刻まれている。そして、ソファの上では、妹の透華が浅い呼吸を繰り返し、苦悶の表情を浮かべている。生々しい破壊の痕跡と、妹の苦痛、そして異形のモノが放つ悪意が充満した、絶望的な空間。


 そして、その中心に――悪夢の元凶が、鎮座していた。


 かつて一ノ瀬ナミエという少女の姿をしていた、悪意の凝集体。


「さあ、始めようか。最初の『掃除』を」


 俺の口から、まるで他人事のように冷たく、硬質な声が紡がれる。それは、もはや恐怖に怯えるだけの少年の声ではなかった。腹の底から静かに湧き上がる揺るぎない決意と、契約によってその身に宿った、まだ得体の知れない力の実感に裏打ちされた響きを持っていた。


 その言葉が引き金となったかのように、右眼がカッと灼けるような、耐え難い熱を発した!


 瞬間、世界が悲鳴を上げたかのように変貌を遂げる。


 視界を構成する全ての色彩が、目に痛いほど飽和し、輪郭が陽炎のようにグニャリと揺らぎ始める。壁も、床も、砕けた家具も、物質という物質から、その存在の本質を示すかのような淡い光の粒子――オーラなのか、エネルギーの残滓なのか――が無数に滲み出し、明滅している。壁の染み一つ、床の傷一つ、空気中を舞う微細な塵の一粒に至るまで、本来なら知覚できるはずのない膨大な情報が、何の秩序もなく、濁流となって俺の知覚器官へと雪崩れ込んでくる!


(う…ぐっ…!なんだ、これは…!? 視界が…ノイズだらけで、ぐちゃぐちゃだ…! 頭が…内側から圧迫されるように、割れるように痛い…!)


 視覚だけではない。聴覚は異常に増幅され、隣室の時計の秒針の音、建物の軋む微かな音、自分の心臓が早鐘を打つ音までもが、まるで巨大なスピーカーで聞かされているかのように大きく響き渡る。嗅覚もそうだ。消毒液と腐臭が混じったような、模倣体エコーが発する異様なまでに濃密な臭気が鼻腔を突き、再び吐き気を誘う。肌を撫でる空気の微かな流れですら、そこに纏わりつく淀んだ『悪意』や『恐怖』といった負の感情の気配を、まるで粘液に触れたかのように生々しく感じ取ってしまう。


 五感から無差別に流れ込む情報の暴力! 脳が、その処理能力の限界を超えてきしみを上げ、悲鳴を上げている。これが、『真実の眼』が捉える世界の、剥き出しの姿だというのか!?


『――脆弱だな。人の器は、真実の欠片を覗くだけで、こうも容易く壊れるか』


 フォラスの声が、思考に直接、嘲るように響いた。それでいて、どこまでも他人事のように淡々と。


(うるさい…! 分かってる…! でも、これが…俺の武器なんだろ…!?)


 俺は歯を食いしばり、激痛と混乱に耐えながら、無理やり意識を目の前の『敵』へと収束させる。この情報量と感覚に、慣れなければならない。この力と共に、戦い抜かなければ、透華は…!


 情報の濁流の中から、俺は『敵』の輪郭を捉えようと必死にもがく。そして――視た。


 目の前の『ナミエ』が、薄っぺらな人間の皮を剥がされ、その忌まわしい本質を晒していく様を。


 黒いもや。怨念、絶望、恐怖――あらゆる負の感情を煮詰めて練り上げたかのような、不定形の影。人型を辛うじて模倣してはいるが、その輪郭は常に不安定に揺らめき、内側からどす黒い炎が燃え上がっているかのようだ。その影の中心、胸部にあたる位置には、まるでブラックホールのように、全ての色と光を飲み込み、絶対的な『無』へと繋がるかのような漆黒の『穴』が存在する。そこから放射される禍々しい冷気は、物理的な寒さとは違う、魂そのものを凍てつかせ、存在意義すら否定するような絶対的な悪意の発露だ。


 そして、その影から、無数の黒い触手が蠢き、まるで独立した生命体のように、空中で鎌首をもたげている。ぬらりとした影の塊でありながら、先端は鋭利な黒曜石のように尖り、空気を裂くようなヒュッ、ヒュッ、という不快な音を立てている。まとわりつくような悪意の『気配』は、腐臭にも似た『匂い』を伴って鼻腔を刺す。そのうちのいくつかは、ソファで苦しむ透華へと粘つくように伸び、彼女の生命力か、記憶か、あるいはもっと根源的な魂の輝きのようなものを、貪欲にすすっているのが『視える』! 透華が時折漏らす、か細い苦鳴が、その度に痛々しく強まっているように感じられた。


(こいつが…! こいつが透華をこんな目に…!! 許せるものか…!!)


 おぞましい。吐き気がこみ上げる。理屈や恐怖を超えた、生理的なレベルでの激しい拒絶反応。そして同時に、腹の底から、マグマのように熱い、今まで感じたことのないほどの純粋な『怒り』が込み上げてくるのを感じていた。


「…ッ! き、さま…! その眼…その気配…!? 一体、何をした…!? ただの人間ではない…!?」


 模倣体エコーは、俺の存在そのものが変質したことを即座に感じ取ったのだろう。その歪んだ顔に、初めて、驚愕と未知への怯えが色濃く浮かんだ。一瞬、その動きが止まる。値踏みするように、あるいは警戒するように。だが、それもほんの刹那。怯えはすぐに、全てを蹂躙じゅうりんするかの如き、剥き出しの殺意と憎悪へと反転した。


小賢こざかしい…! 人間の分際で、この私に逆らう気かァッ!! 思い上がるなァッ!!」


 金切り声がリビングに響き渡る! それと同時に、模倣体エコーの影から、数本の黒い触手が、音もなく、しかし恐るべき速度で、俺目がけて射出された!


 速い! 真実の眼は、その悪意の軌道を寸分の狂いなく捉えている。なのに、身体が動かない! 情報が多すぎる! 脳が、感覚が、まだ新しい現実に追いつけない!


(まずい…! くそっ、避けろ…! 動けぇっ!)


 頭では危険を理解しているのに、身体が鉛を飲み込んだように重い。避けられない――! そう絶望しかけた、瞬間。


 右腕が、俺自身の意思とは関係なく、まるで弾かれたように、勝手に動いた。


 いや、違う。俺の中に流れ込んできた、あの冷たくて熱い、矛盾した力の奔流が、俺の腕を強制的に動かしたのだ。


 まるで鞭のようにしなった右腕が、迫り来る黒い触手の群れを薙ぎ払う。


 刹那――視界が白く染まった。


パァンッ!!


 空気が破裂するような衝撃音と共に、右手の軌跡に沿って、眩いばかりの白銀の閃光がほとばしった! それは実体を持った刃のように触手を切り裂く。接触した瞬間、ジュッ、と肉が焼けるような音と、ツンと鼻をつくオゾン臭が立ち昇り、黒い影が白銀の光に浄化されるように霧散していくのが視えた。抵抗は、ない。まるで存在そのものが否定されたかのように、あっけなく。


「ギャアアアァァァッ!?」


 模倣体エコーが、先ほどとは比較にならないほどの、魂を削るような凄まじい苦痛に満ちた絶叫を上げた。


 俺は、自らの右手を呆然と見下ろした。まだビリビリと痺れ、微かに光の粒子が尾を引いている。


(今のは…俺が…やったのか…? この、力が…?)


 尋常ならざる力が身体を駆け巡った感覚。全てを破壊できるかのような、全能感にも似た危険な高揚。だがそれと同時に、右腕から急速に体温が奪われ、魂の灯火が吹き消されるかのような、強烈な虚脱感と悪寒が背筋を駆け上る。


(痛っ…! 右目が…! 契約の印が刻まれた場所が、焼印でも押されたように、焼けるように痛む…!)


 視界が一瞬、白く霞み、息が詰まる。思考が、コンマ数秒、完全に停止した。


(そして、この…身体の芯から凍えるような冷たさは…一体…!?)


『――それこそが力の奔流。そして、代償の始まりだ。全てには、相応の対価が求められる』


 再びフォラスの声が、脳内に響く。まるで他人事のように淡々と、しかし有無を言わせぬ事実として。


(代償…これが…力の、本当の感覚…)


 理解が追いつかない。実感もまだ伴わない。それでも、目の前の現実が、嫌でも俺に叩きつける。俺は、人ならざる力を手に入れた。その力は、この化け物に通用する。だが、それは決して、都合の良い奇跡などではないのだと。


「許さない…! よくも、よくも!! この、虫ケラがァァァッ!!」


 苦痛の絶叫の後、模倣体エコーの憎悪と殺意は、もはや狂気の域に達したようだった。影の身体が、ぶわりと不気味に膨張し、リビングの空気が一変する。温度が急速に下がり、肌を刺すような悪寒が走った。まるで重い鉛の空気が、部屋全体に圧し掛かってくるようだ。そして、次の瞬間、不意に訪れた耳鳴りのような甲高い静寂の中、それは来た。


 今度は、単純な物理攻撃ではない。もっと陰湿な、俺の精神、その内側を直接蝕み、破壊しようとする純粋な悪意が、黒く淀んだ波動となって放たれる!


(来る…! 今度は、心の奥に直接…!)


 脳裏に、再び過去のトラウマが悪意ある映像となって再生されかける。両親の事故の瞬間、周囲の同情と憐憫の視線、拭えなかった孤独と罪悪感――。


(くっ…!)


 一瞬、意識が引きずられそうになる。だが、俺は歯を食いしばって耐える。もう、これには呑まれない。俺は、この痛みと向き合い、受け入れ、乗り越えたはずだ!


 『真実の眼』は、その精神攻撃の波動が、模倣体エコーから黒く淀んだ汚泥のように放たれ、俺の精神へと侵食しようとしている様を、克明に捉えていた。


(断ち切る…! さっきの光で…! 俺自身の意志で、今度こそ!)


 俺は右手に意識を集中する。さっきの、無意識の力の奔流ではない。俺自身の意志で、あの光を、悪意を断ち切る刃を、この手に顕現させる!


 恐怖を怒りに変えろ。透華を守るという決意を、力に変えろ!


 俺は震える右手を、決然と前へ突き出した。


「お前の汚い手に、俺の心も、透華も、もう二度と触れさせるか!!」

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