第5話 湧き上がってくる
ふとした時に、すみかのことを考えてしまう。部屋で本を読んでいる時。部活でランニングをしている時。ご飯を食べている時。着替えている時。目が覚めた時。そんな日常の隙間にするりとすみかは入り込んでくる。頭に浮かんでくるのはすみかの顔だったり、目の色だったり、声だったり。まぁ、結構バラバラだ。
何でこんなふうになったんだろうか。今までずっと一人っ子で、同じくらいの歳の子と一緒に暮らしたことがなかったから?
どれだけ考えたところで、どうせ正解なんて出てこない。それがどこかでは分かっているのに懲りずにまた考えてしまうのは、多分、そうしないとやっていけないからだ。
「あれ、すみかは?」
午前11時。朝、と呼ぶには少し遅い時間帯。わたしは人よりも眠る時間が長くなりがちなので、部活が休みの時はこのくらいの時間に起きることが多い。
「ずっと前に起きて、ご飯食べて、図書館行ったわよ。勉強するんだって」
「へぇ」
目を擦る。眠い。
牛乳で食パンを流し込む。
先週、すみかが夜まで帰ってこなかった時も、図書館に行ってたのかなーとぼんやり思った。
食べ終わると、ゆらゆらと幽霊みたいにまた階段を登って、部屋に入る。
すみか、いないんだ。その事実が、ゆっくりとわたしの目を覚まさせていく。
すみかの使っていた枕に、ばふっと顔を埋める。隣で眠るときに微かに香るすみかの匂いがした。私のと同じシャンプーの香りの底で、わずかに主張している、それとは違ったすみかの匂い。一緒に寝てる時よりもはっきりとした匂いの輪郭を捉えることができた。
肺の中の息を全部吐いてから、思い切り吸い込むと、頭の中が純度100%のすみかで満たされる。今までにない未知の感覚に、頭がくらくらする。
ダメだよ、これ。脳内の警戒信号を全力で無視して、呼吸を続ける。
吸うのと吐くのを繰り返すたびに、体内のすみかの成分の濃度が濃くなっていくような気がした。
なんだか、強いお酒を飲んだみたい。飲んだことないけれど。
吐く息が段々熱くなってくる。
多分今、人には絶対見せられない姿してるんだろうな、私。
ベッドの上に形成された、私だけの閉ざされ切った世界は、コンコンと扉が叩かれる音で一気にガラガラ崩れ去った。
背筋が凍る。呼吸が止まる。動けない。血液の循環すら止まってしまったかのように思える。このままの姿で誰かに見つかっちゃったら確実にアウトなのに、体が言うことを聞かない。
「
お母さんのその声で、体の硬直が解ける。えっと、えっと、どこにいるのが一番自然なんだろ。とりあえず最悪の事態を避けるために、仰向けになって毛布を被る。顔は出す。目を瞑る。真昼間にベッドに寝っ転がってる時点で既に怪しいけれど、すみかの枕に顔を埋めている醜態を晒すよりは、多分マシだよね……
がちゃりと扉が開いた。
「……あんたなにやってんの」
「お昼寝」
「起きてんじゃん」
「……」
失敗した。けれど、どうやら怪しまれてるわけじゃなさそう。お母さんが呆れ返ったように言う。
「はぁ。そんな暇ならすみかちゃん見習って図書館で勉強でもしたら?」
私がカタツムリのように硬化して、答えないでいると、お母さんはでっかいため息を一つついて、出ていった。階段を降りる音を聞いて、大きく息を吐き出す。
「焦ったぁ……」
思えば人生最大のピンチだったのかも。あんな場面を他人に見られたら、私にわずかながら残された人としての尊厳とかプライドは、木っ端微塵になっていたと思う。
しばらく深呼吸をして落ち着いた後、お母さんが言ってたことを頭の中で反芻する。
「図書館で勉強ねぇ」
正直、好きじゃない。寧ろ、嫌い。
英語とか数学とか、なに言ってるか一ミリも理解できないし。古文に関しては勉強する意味もわからない。
それと天性の後回し癖も相まって、ペンをもつモチベーションは全く湧いてこなくて、当然夏休みの課題も手付かずの状態で放置されたままになっているのだった。
まぁ、でも。すみかがいるのなら。
ちょっと行ってみようかな、という気にならないこともない。
外ってこんなに暑かったっけ。
生きる気力すらも奪ってきそうな日差しがぎらぎら容赦無くわたしを炙ってくる。明確すぎるほどの攻撃の意思。もっと、自然は人間に対してフレンドリーでもいいんじゃないの、と思う。
バスか電車かで行ければ良いんだけど、そういう交通網の空白の部分、いわば台風の目のような地域に私たちの家はあるので、歩いていくか自転車で行くしかない。頼みの綱の自転車も、今は修理に出している。逃げ道は最初から、全て塞がれていた。
「ついたぁ」
おでこの汗を拭う。
そっけない無機質なコンクリートの塊。それが、この市立図書館を説明する全て。何の味気もないその無骨な箱型のデザインが、わたしは結構気に入ってたりする。余分なものを全て削ぎ落とした理想の形みたいで。
アルコールっぽい図書館特有の香りと、生き返るような涼しさを十分堪能してから、わたしはすみかを探すことにした。勉強しているなら、多分二階の自習スペースにいるはずだ。
木製の螺旋階段を上がる。長い間使われていたのか、それとも整備が満足になされていないのか、段を踏むたびにぎしぎしと不安になるような音がした。
一応課題は持ってきたけれど、やっぱり気が進まない。課題なんて、最終日にまとめてやるものだと今も思ってるし。でもこうして暑い中やってきたのは、すみかと一緒にいたいからなんて不純な気持ちがあったから。
勉強、教えてもらったり、できるかな。すみかに教えてもらえたら、少しは勉強するのが好きになれるかもしれないし。
廊下と自習室は、青っぽいガラスで仕切られている。中には意外とたくさん人がいて、すみかがどこにいるのか分からない。そもそも本当にここにいるかもはっきりしてないし。
端から端まで見回してみたけれど、やっぱりすみかの姿は捉えられなかった。
ここにはいないのかな。勉強に飽きちゃって、本を探しにいったのかも。諦めて戻ろうとした時、誰かに肩を叩かれるのを感じた。
一瞬呼吸が止まる。声をあげそうになったけれどギリギリのところで我慢して振り返った。
・・・・・
冷房の効いた静かな自習室で、ペンをノートに走らせていると、嫌な記憶から少しだけ自由になれる。
でも、隣に七海がいないのはやっぱり寂しい。
七海と話したり、夜にじゃれあったりしていると特別な気分になる。
ここにやってきてから、毎日が何だかきらめいているように感じられていた。
こんなことは生まれてこの方初めてで。
自分はここにいて良いんだって、思う。ここには私の居場所が確かにある。
そう感じさせてくれるのは間違いなく七海と、七海のお父さん、お母さんのおかげ。
ふぅと一息ついてペンを置いた。すると、これまで聞こえなかったはずの周囲の音が聞こえてくる。誰かが本のページを捲る音とか、椅子に座り直した音とか。
ペンを置いた瞬間に現実世界に引き戻されるようなこの感覚は、昔からあまり好きになれないものだった。でも七海の家に来てからはそんなこともなく、寧ろ好ましいものになっている。
何気なく窓の外、廊下の方を見やると、キョロキョロ何かを探しているような人影が見えた。赤みがかかった茶色っぽい髪が揺れる。
見覚えのあるその髪。肩の輪郭。
七海だ。解きかけだった問題の内容が全部頭の中から飛び出していって、七海のことでいっぱいになった。
不思議な喜びが静かに湧き上がってくる。口元が綻んでいくのが自分でも分かった。思わず左手で口を隠す。幸い、周囲に座る人たちは、私の表情の変化に気づかずに、手元のノートやら本やらを眺めたままだった。
そっと立ち上がって、自習室の後ろ、七海がいるところの反対側に位置する扉を開けて外に出る。どんな反応するんだろう、と考えながら、音を立てないように廊下を歩く。
先に見つけられてよかった。七海を見つけたときの表情を見られていたら私はもう終わりだった。
角を曲がると、その背中が見える。
早く顔見せてほしいな、なんて思いながら、足音を殺して近寄って、七海の肩に両手を乗せる。
振り向いた七海の顔が、びっくりした表情から安堵の表情に変わる。愛おしいその変化が眩しかった。
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