第10話 雨の音
朝からすみかの元気がない。
お母さんやお父さんと何か喋る時は、別になんともない、いつものすみかなのに。
最近のすみかは明らかに、私を恥ずかしくさせるようなことをあんまり言わなくなった。
それはそれで、喜ぶべきことのはずなんだけど、なんだか張り合いがないなぁと感じてしまう自分が、どこかにいる。
例えるなら、そう。遊園地のジェットコースターみたいなもの。私はあまり絶叫系が得意ではないけれど、乗らずに帰ってしまうと寂しさを覚えてしまう。あんな感じ。
流石に気になって、さっき何気なく聞いてみたんだけど、すみかは何にもないよーと手を振って笑ってた。けれど、その笑顔には、今にも剥がれ落ちてしまいそうな脆さがあった。
すみかは何かに耐えている。それは自分からはとても相談しづらいこと。私に推測できるのは、この程度だ。
「すみか、どこ行くの?」
「ん、ちょっと出てくるだけ」
携帯をじっと見つめていたすみかが、そう言って家を出ていってから、もう1時間が経つ。いまだに戻ってくる気配はない。それどころか、雨まで降り出してきてしまった。
いまどこ?大丈夫?
そうメッセージを送る。
そのままじーっと画面を眺めてみたけれど、当然のように既読はつかない。
「お母さん、すみかがどこ行ったか知ってる? 出てくるっていったきりなんだけど」
2階の廊下に掃除機をかけていたお母さんに聞くと、その顔がさっと曇った。
「それ、ほんと? 今まで帰ってないの?」
「うん……」
私が頷くと、お母さんはポケットから携帯を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。応答がなかったみたいで、何回か掛け直す。けど、結果は同じ。
「探してくるから、七海は家で待っててね」
「まってお母さん、私も……」
「家にいて」
有無を言わせない、強い口調。
私は何も言い返せなかった。
呆然と窓から赤いテールランプを見送る。
お母さんのあの慌て方、きっと私の知らない何かがあるんだ。それがすみかにとってつらいことなら、私はせめて、そばにいてあげたい。
雨が打ちつける窓越しに、道路の向こうのほうからとぼとぼと歩いてくる、見覚えのある服がちらりと見えた。
それを認めた途端、私はかけだしたていた。
「すみかぁぁー!!」
間違いない。見間違うはずがない。
「ねぇ、大丈夫? 何かあったの? ねぇ、すみか——」
掴んだすみかの肩からは、いつものあったかい温度は失われていた。
「とにかく、家入ろ?」
すみかは微かに顎を引いて、またゆっくり歩き出した。傘を持って出てこなかったことを後悔する。肝心な時に気が利かない自分が、結構嫌になった。
家の玄関にたどり着いて、中に入って扉を閉める。
「ベッド……」
「え?」
「さむい」
布団で暖まりたい。すみかはそう言ってるんだ。
「分かった。分かったからその前に、シャワーして着替えよ? タオルは洗面所に置いてあるやつ使って」
可哀想なほどびしょぬれになったすみかを、お風呂へと連れていく。
脱衣所に入ると、まるで私がいないかのように目の前で服を脱ぎ始めたので、慌てて扉を閉める。
……間一髪だった。
洗面所の扉を背にしながら、私は一体何があったんだろうかとぐるぐる考えを巡らせていた。
いつものベッドに、2人並んで座る。
毛布をかけてあげると、すみかはありがとう、と小さくつぶやいた。
「それで……」
何があったの。そう聞こうとして、ギリギリのところで踏みとどまる。
……言いたくないことなのかもしれない。
無理に言わせてしまって、もっとつらい思いをさせるようじゃだめだ。
何も言わないで、ゆっくり毛布越しに背中をさすってやる。10分くらい経ってから、すみかがゆっくりと口を開いた。
「帰ってこいって」
「え、どういう……」
「お父さんに。もう戻れって、言われちゃった」
「あ、こっちの学校に入るのやめたとか、そういう?」
ううん、とすみかは小さく首を振る。
「私、七海に言ってないことがある」
「言ってないこと?」
「こっちの学校に行こうとしてたのは、ほんと」
「うんうん」
すみかの話はなかなか要領を得なくて、頑張って話してるんだろうな、というのが伝わってきて。
「私のお父さんとお母さん、私が家にいる時ずっと、ずっと喧嘩してて」
「……」
「お父さんは1年くらい、私の方、全然向いてくれてなくて。……それで、お母さんが七海のお母さんに相談したら、七海のお母さん、無理矢理にでも私を預かるって言ってくれて」
「お母さんが……」
そんなこと、全然知らなかった。
「喧嘩してるところで生活するのは精神的に良くないからって。お母さんに連れられて、お父さんが寝てる間に家、出てきたの」
「私、嬉しかった。私のことをそんなふうに思って動いてくれる人がいるんだって。ずっと、見向きもされなかったから……」
好きの反対は無関心。いつか、すみかが言ってた言葉を、唐突に思い出す。あの時から、すみかは助けて欲しかったんだ。それを私、全然気づけてあげられなくて。
「それで、今日の朝、お父さんからもう大丈夫だから帰ってきなさいって連絡があって。それ見た瞬間、お父さんの大きい声とか、ガラスが割れる音とか、全部思い出して泣きそうになって。すみかには見られたくなくて、外に……」
私は思わず、その細い体をぎゅうっと抱きしめていた。
「七海……」
「大丈夫だよ」
「え……」
「ここにはすみかのことを気にかけてない人なんていないよ」
背中をさする。浮き出た背骨を、手のひらに感じた。
「大丈夫、だから……」
くりかえし背中をさする。あったかいものを、少しでもすみかに届けられるように。
私の言う大丈夫には、悲しいかな、根拠なんてない。法律のこととか、大人の世界のこととか、まだ全然、分かんないし。
けれど、私は私にできること、全部したい。すみかのためにできることなら。だってすみかは私の、大事な大事な従姉妹、だから。
涙で濡れたすみかの目は、いつものいたずらっぽい光に満ちたものではなくて、私は結構動揺した。
「七海はさ、人の体温が安心するって言ってたよね」
「うん」
「私も、だよ。私も七海の体温が大好きだった」
目と目が合う。すみかが涙を拭いた。
「もっと、ほしい」
「……どうすればいいの」
すみかの右手のつめたい指が私の頬に触れる。
「……キス、してほしい」
息が詰まる。
すみかがかすかに声を振るわせた。
「もっと安心させてよ……」
私の全部をすみかにあげたい。今までもらったものの恩返しがしたい。
でも、従姉妹同士でキスなんて、普通しない。
私は、どうするのがいいんだろう。
答えは、すぐに出た.
「……いいよ。してあげる」
すみかの瞳が僅かに見開かれる。
この目で見つめられたら、私は見境なくなんでもしてしまうんだろうな、と思う。
今までで一番深く視線が合わさって。
雨の音が、聞こえなくなった。
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