5:追ってくるかしら?

 石造りの回廊には一瞬の静寂が満ちていた。


 だが、それはほんの束の間だった。


「……聞こえますかしら、クレア?」


「ええ、聞こえてます。あちこちから。」


 ぬら……ずる……と、石の隙間を這い擦るような音が、四方の通路や扉の向こうから響き始めた。


 その音は一つ、また一つと増え、やがて湿ったコーラスのように回廊を満たしていく。


「お嬢様、扉だけではありません。床下の格子、壁の裂け目……あらゆる隙間から……!」


「ミイラですわね。さっきの復活で目を覚ました副産物ですわ!」


 クレアの言葉が終わるよりも早く、最初の一体が姿を現した。


 それは、まるで壁そのものから滲み出すように現れた。


 乾き切った包帯を引きずり、黒ずんだ眼窩でエレノアたちを“見ている”。


「数……多すぎますわ……!」


 エレノアが叫ぶと同時に、ランタンが最後の火花を散らし、ふっと、光が消えた。


「ランタンの燃料切れです!」


「――もう、こうなったら……!」


 エレノアは躊躇なく懐から、金色に輝く小さな鈴を取り出した。


「頼みますわよ……猫様!!」


 チリン――!


 澄んだ音が石壁を突き抜け、見えない何かを呼び寄せるように回廊を震わせる。


 次の瞬間、石柱の陰から、優雅な足取りとともに一匹の猫が姿を現した。


「ニャ? ずいぶんとにぎやかな状況になってるニャ~」


 闇の中から、もふっとした黒猫が現れた――欠けた片耳に金の耳飾りを揺らしながら、悠然とした足取りで歩み出る。ニャンデルだった。


「ニャンデル! 今すぐ何とかしてくださいまし!」


「しょうがないニャ~……」


 前足がふわりと光を帯びたその瞬間、エレノアとクレアの身体が――


 ふっと軽くなった。


 背中から風が吹き込むような錯覚とともに、彼女たちの足元が浮くように滑り始める。


「バステト様の祝福ニャ!」


「……すごい、動きが……軽い……!」


「にゃっはっは、スピード補正ニャ! 今のうちに走るニャ!」


 ニャンデルが飛び跳ねながら、ミイラたちの群れの中へ突進していく。


「お主ら、そんな包帯をぐるぐる巻きにして動きにくくないニャ?」


 ミイラたちは反応せず、乾いた唸り声とともに腕を振り上げる――が、その瞬間、ニャンデルの前足が包帯を器用に引っ掛けた。


「ニャっ!」


 キュルルルル……!


 包帯がするすると引き出され、ミイラたちはまるで毛糸玉のように巻き取られていく。


 あっという間に、回廊の中央には巨大な“ミイラ毛糸玉”が完成していた。


「ニャハハ、これで動けまい!」


「す、すごいですわ……!」


「さすが猫様です。知性が変な方向に発揮されてますね……」


「いまのうちニャ! 先に進むニャ!」


 三人――いえ、二人と一匹は、再び回廊を駆け抜ける。


 石造りの回廊を風のように駆け抜け、最後の角を曲がった先――


 視界が、ぱっと開けた。


 月明かりが差し込む、開けた砂の広場。


「……外、ですわ!」


「助かりました……」


 クレアが肩で息をしながら、ようやくランタンを収めた。


 だが――


「……ん?」


 足元が、揺れた。


 それは微細な、けれど確かな震動。大地が低く唸っている。


「地震……?」


「いえ……これは――」


 その時、ニャンデルが耳をぴくりと動かし、尻尾を逆立てた。


「違うニャ。地面が沈んでるんじゃない……ピラミッドが浮いてるニャ!!」


「は?」


 言い終える間もなく、ピラミッドが、砂を巻き上げながらゆっくりと地面から浮かび上がる。


 ゴゴゴゴゴ……ッ!!!


 風が唸り、砂塵が舞い、まるで神々の目覚めに立ち会ったかのような錯覚が空間を支配した。


 エレノアは唖然として、空へ昇るその巨大構造物を見上げた。


「……そんな、まさか……本当に……飛びましたの……?」


 かつて、王のために築かれた永遠の墳墓。

 今、その巨体は、夜空を背景にゆっくりと上昇していた。


 外壁に刻まれた象形文字が、月光に照らされて鈍く反射する。空へ捧げられる聖なる碑文のように。


 その頂点からは、青白い魔力の光が放たれ、天へと糸を引くように延びていく。


「これが……本来の姿ですのね……」


 エレノアの呟きに、クレアが沈黙のまま頷いた。


 ふたりと一匹は、しばしその威容に見惚れていた。


 が――


「……あれ、方向変えてませんか?」


「……え?」


 ゴウ、と風の音が鳴る。


 浮上したピラミッドが、重くゆっくりとその“面”を傾ける。


「うそですわよね!? 飛んだだけではなく、追ってきてますの!?」


 クレアが即座に手を引き、ふたりは再び砂の上を駆け出す。


 ピラミッドの底面からは、かすかに蒼い霊気が漏れ出していた。


 それは、空を漂う巨大な神殿――

 同時に、逃れられぬ運命の象徴のようでもあった。


「くっ……王家の威厳、物理的に重すぎますわ……!」


「お嬢様、地形が開けてきました、あそこがナイル河です!」


「よし、ならばこのまま――」


 その時だった。


 またしても、背後からうねり声が響いた。


「……またミイラですの?」


「おかわりは頼んでおりませんわ!」


 再び、走る――

 月の下、ナイル河が目前に迫る。


 砂を蹴りながら走るエレノアの脳裏に、不意に浮かんだのは――


 あの時、ニャンデルが言いかけた言葉だった。


「ちょっと待ってくださいまし!」


 クレアが驚いた顔で振り返る。


「……お嬢様?」


「わたくし、思い出しましたの。あなた、あの時“にゃんだか、危険な匂いがするニャ”と何か言いかけましたわね?」


 問い詰めるように睨まれたニャンデルは、ふわりと尻尾を持ち上げ、

 まるでわざとらしく鼻をひくつかせた。


「あなた、最初からこうなると知っていて、黙っていましたわね?」


 ニャンデルはしれっと跳ねながら言う。


「ニャ?いずれは気づくと思ってたニャ。バカじゃなければ」


「……いま、わたくしを何と?」


「……ニャ?さっきの、空耳ニャ!砂漠の風は時々“バカ”って鳴くニャ。」


「とにかく、最初から、ネフティス様の復活は猫族の目的だったニャ」


「……どうやら、本格的に利用されていましたね、お嬢様」


 クレアの言葉に、エレノアの瞳がギラリと光る。


「ではなぜ、最初から儀式の正しい手順を教えてくださいませんでしたの!?

 あなたたちが正しく導いてくださっていれば、今頃、精神不安定なファラオに追いかけ回されずに済んだかもしれませんのよ!?」


 激昂する声に、ニャンデルはピクリと耳を動かし、ふわっと尾を巻いた。


「……それは無理ニャ」


「は?」


「ニャンと、儀式はほぼ完成してたニャ――でも“聖水の取得”で、大神官がワニに食べられたニャ。そのせいで儀式は中断されたまま、2000年間放置されたニャ」


「……冥界の管理者も呆れますわね」


「しかも今となっては、冥界からの正式な許可なんて、誰も取得できないニャ。冥府も今さらファラオの復活なんて認めるわけないニャ」


「つまり――」


「そうニャ。お嬢ちゃんがやったこと――不完全な儀式で冥界とのリンクを開き、そこから“非常用の復活ボタン”で魂の一部を強制召喚する――

 これは、理論上最も成功率の高い復活法だったニャ!」


 クレアは絶句した。


「……あれが、ですか?」


「うんニャ。半分偶然、半分必然。運命ってやつニャ」


「運命?」


 エレノアが睨みつけると、ニャンデルは気怯れするどころか、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。


「トト神様の書の残片に、こう記されてたニャ。

“金髪海賊の末裔が、魂の海より王を呼び起こし、盟友となるであろう”――それが、お嬢ちゃんニャ」


「海賊って……まあ、確かに先祖にヴァイキングはいましたけれど!」


「事実ニャ」


「じゃあ聞きますけど、盟友になるって言いましたわね?

 どうしてその“盟友”が、あんな怒り狂った亡霊に命を狙われているんですの!?」


「……予言は、正しいニャ」


「どこがですの!?」


「ただ、“正しさ”にはいろいろな形があるニャ。

 例えば――今にもあの角から飛び出してくるミイラたちが、『友達になりたい』って手を振ってくる可能性もあるニャ?」


「その“可能性”が一番ありえないですわ!!」


「で・も・ニャ!」


 ニャンデルは、ぴたりと立ち止まり、くるりと振り返った。


「予言には第二の法則があるニャ」


「……第二?」


「“予言が一部実現したら、予言を当人に告げることで、残りの予言も早まる”――それが、時の管理者トト様の仕組んだ因果トリックニャ」


「つまり、あとは自力で進めということですのね……!」


「そうニャ。でもお嬢ちゃんの選択が、すべての鍵になるニャ」


 ふたりの目の前に、さらなる砂塵が巻き上がった。

 遠方からは、再び現れたミイラの群れが――のっしのっしと、あまりにもマイペースに迫ってきていた。


「……なんだか、遅いですわね」


「ええ、助かりますけど」


「なら、今のうちに……!」


 エレノアは、高台となった砂丘へ駆け上がり、懐から赤い信号弾を取り出した。


「今こそ、わたくしの過去の経験が役立つ時……!

 援軍を呼んで、全力で逃げますわよ!!」


「学習能力が高くて助かります」


「撃ちますわ!!」


 バシュウウウウ――ッ!!


 夜空に放たれた赤い光は、流星のように宙を走り、ナイル川の星空と交差した。

 その一瞬だけ、逃走中の三人の影がくっきりと砂丘に浮かび上がった。


「おお……風流ですわね」


「お嬢様、今は風流より危機感です」


「ええ、わかっていますわよ。でも、あまりに絵になるものですから」


 エレノアが優雅に髪を整えた、その刹那――


 ズズズズズ……!!!


 砂の地面が波打つように膨れ、ひび割れが走る。


「……にゃ?」


 ニャンデルが耳をぴくりと動かし、尻尾をぴんと立てた。


「お嬢様、何か……」


 ドンッ!!!


 裂けた地面から飛び出したのは――漆黒の外殻を持つ、巨大なサソリだった。


「ぎゃああああああああ!!!!???」


「お嬢様、落ち着いて!」


「わたくし、毒は本当に嫌いですの!!!」


「その点においては、全人類が一致してます」


 全長12メートルを超えるその甲殻虫は、赤く光る尾を高く掲げ、ゆっくりとこちらを向いた。

 カサカサカサ……と、複数の足が砂を掻き、鋭いハサミが月光を反射する。


「まさか……“墓守のサソリ”まで復活してたニャ……!」


 ニャンデルはくるりと一回転しながら空中を跳ね、叫んだ。


「とにかく逃げるニャ!! 水辺に向かうニャ!! サソリは泳げないニャ!!」


「 クレア、全力ダッシュですわよ!!」


「はいっ!」


 ふたりは一斉にナイル川方面へと駆け出した。

 振り返ると、サソリの尾が砂を突き上げ、背後に毒霧のような赤い粉を巻き散らしている。


「毒まで撒いてくるなんて、悪趣味ですわね!!」


「そりゃあ、死者の守護者ニャから……!」


 だが――


「……あれ?」


 クレアがふと立ち止まった。


「なんですの!? 危険ですわよ!」


「いえ、ほら」


 クレアが指差す先――そこには、のしのしと歩くミイラの軍勢が、川辺へ向かって移動していた。


 ザバァァァァァンッ!!!


 ミイラのうちの一体が川へ入った瞬間――

 ――ガブッ!!


「……」


「……」


「……ワニですわね」


「ええ、確実にナイルワニですね」


 バシャァァッ!! と水柱が立ち、ミイラが見事に水中へ引きずり込まれる。

 続けざまにもう一体、三体……と、ワニの祝福を受けていく。


「今がチャンスニャ!! サソリも川際には寄ってこないニャ!」


「わかりましたわ! クレア、泳ぎますわよ!!」


「ええ、またですか……」


 ふたりは服の裾を摘みながら、ナイル川へと躍り込んだ。


 ニャンデルは……なぜか空中に浮いたまま、のんびりと彼女たちの後をついてくる。


「……ニャンデル、あなたはなぜ濡れずに済んでますの!?」


「にゃ? 濡れるなんて、そんな野蛮な……」


「だったら、わたくしも浮かせてくださいまし!!」


「無理ニャ。お前は大型猫だから重いニャ」


「なんて失礼な! わたくしが重いのではなく、地球の重力が過剰なだけですわ!!」


「お嬢様、ニュートン卿が墓の中で怒っておられますよ……」


 息を切らしながら、ふたりはナイルの対岸へたどり着く。


「……でも、なんとか生き延びましたわね……」


「油断は禁物です」


 そのとき――空が鳴った。


 ゴオオオオオ……


 ゆっくりと、空を滑るように動く巨大な影――

 浮遊する金字塔が、なおもこちらの方角へ向きを変えていた。


「……嘘、ですわよね?」


「まだ……追ってくるんですの?」


 空に浮かぶ神殿の頂から、青白い光が漏れ、

 ――さらなる追手が、解き放たれようとしていた。

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