第2話 拳匠、殴り返す
リガンテスの王立魔導学院には数多くの貴族や騎士系家門の子女、更には聖王家の血筋の者までが当たり前の様に籍を置いている。
加えて、市井の一般市民も入学試験で良好な成績を叩き出し、一定の学費を払えば入学が許可される。
通常では考えられない様な身分ごった煮状態の学び舎だが、逆にいえばそれだけ門戸が広いからこそ、レムニアの様な魔導素が極端に低い落ちこぼれでも、家門の力で何とか入学することが可能という訳だ。
しかし、入学後は茨の道であった。
有力な家格の子女であれば家門の力で優れた教育環境と良好な学園生活を獲得出来るのだろうが、平民や貧乏貴族、或いはレムニアの様な落ちこぼれの出来損ない生徒は自らの力で必死に這い上がり、退学処分を免れる様に日々頑張り続けなければならない。
当然レムニアも、入学までは家門の力で何とか支援して貰えたが、入学後は授業料の支払い以外、全く援助が無い。
その非力さから多くの貴族や平民達から鬱憤のはけ口とされ続け、毎日の様に生傷が絶えない日々を過ごしていた。
そしてアストレイン公爵家内に於いても、レムニアの味方となってくれる者はごく少数だった。
ほとんどの者は公爵家の威信に泥を塗りかねない落ちこぼれのレムニアを煙たく思っているらしく、大小様々な嫌がらせがこちらも連日の様に続いている有様だった。
それでもレムニアは、決して諦めずに努力を重ねていた。彼女の夢は、一人前の魔導医となって怪我や病気で苦しむ多くのひとびとを救いたいというものであった。
その為ならばどんな努力も惜しまず、日々の虐めや嫌がらせにも懸命に耐えることが出来ていた。
そんな彼女の肉体に、どういう訳か拳匠ゲンガの意識が憑依した。のみならず、霊慶仙掌の奥義まで使役可能となっている。
これは一体どういう訳であろう。神のいたずらか、或いは何らかの運命による必然か。
だがいずれにせよ、分からないことが多過ぎる。
ゲンガ=レムニアは自らの脳内に焼き付いている記憶を頼りに、この地でどう生き抜いてゆくかを検討しなければならない。
その為にも、ひとりでも多くの者と接して情報を吸い出す必要があった。
ところが――。
(ふぅむ……どいつもこいつも、全く近寄ろうともせんわ)
多くの貴族子女が馬車で自邸へと帰宅する中、ゲンガ=レムニアは通学鞄を抱えて徒歩で石畳の大通りを歩いていた。
公爵家程の家格の子女ならば、本来であれば馬車での送迎があって然るべきなのだが、レムニアにはその程度の待遇すら与えられていない模様である。
ならば、歩いて帰るしかない。
霊慶仙掌の修練で相当に精神力を鍛え抜いたゲンガは、徒歩で何十分もかけて自邸まで帰り着く程度のことは全く気にもならなかったが、貴族子女であるレムニアが馬車にすら乗せて貰えず、四方八方から嘲笑の視線を向けられるのには幾分辟易した。
(全く……よくぞめげずに、今日まで耐え抜いてきたものだな。それだけは大したものだが……)
呆れるやら感心するやらで、溜息しか出てこない。
しかしレムニアの境遇に嘆いてばかりいても、先には進めないだろう。ゲンガ=レムニアは結構な時間をかけて漸くアストレイン公爵邸へと帰り着き、邸内の自室に向けて歩を進めていった。
途中、何人かの家士や侍従、メイドなどとすれ違ったが、いずれも挨拶ひとつ寄越して来ない。寧ろあからさまに侮蔑する様な視線ばかりを投げかけてくる。
貴族の娘に対してこの態度は如何なものかとも思ったが、従来のレムニアはそれらの嫌がらせに近しい態度や言動にもひたすら耐えてきたのだろう。
とても貴族の子女とは思えない程の清廉さ、潔癖さ、そして忍耐力の強さといわなければならない。
(ふん……構わぬ。わしとて、あんな下劣な連中の相手なんぞに時間を潰す気は無いからな)
小さく鼻を鳴らして廊下を進んでゆくゲンガ=レムニア。
蔑まれているからといって、別段自分から喧嘩を売りに行くつもりは無かったが、しかしトラブルの方から首を突っ込んできた。
ゲンガ=レムニアがもう間も無く自室に辿り着こうとしたところで、不意に頭上から汚れたバケツ水が浴びせられたのである。
何事かと視線を転じると、嫌らしい笑みを浮かべた年若いメイド数名が、バケツを手にして佇んでいるのが見えた。
「あらあら、誰かと思えば落ちこぼれ姫様ではございませんか」
「まぁ~、何てみすぼらしい格好なんでしょう。こっちまで臭くなるから、近寄らないで欲しいですわ!」
自分達で汚水をぶちまけておきながら、随分と一方的ないい草である。
甲高い哄笑が、辺り一面で連鎖した。ここに居るメイド達は、日々の仕事の鬱憤をレムニアへの虐めで晴らすのが常となっているらしい。
だが、今ここに居るのは何をされてもいい返すことすら出来ない、かつてのレムニアではなかった。
「……殴る以上は、殴り返される覚悟も当然、あるのだろうな?」
「は? あんた、何いってんの? 落ちこぼれの癖に、デカい口叩いてんじゃないわよ」
とてもではないが、メイド如きが主家の娘に向けて良い言動ではない。
ならば、容赦は不要か。
「霊慶仙掌に於いては、歯向かう者であれば例え女子供であろうとも容赦はせぬのがしきたりよ。我が奥義を喰らうその身を誇りに思え」
その直後、アストレイン邸内が巨大な震動に包まれた。
と思った瞬間には、先程ゲンガ=レムニアにバケツの汚水を浴びせかけた若いメイドは、大股開きでスカートの中身を披露したまんま、豪快に転んでいた。
(ふふん……下手に命を取られるよりも、こういう手合いは小っ恥ずかしい目に遭う方が余程にツラいであろうよ)
一瞬、何が起きたのか理解出来ない様子で、呆然とその光景を眺めていたメイド達。だが、その数秒後には変などよめきが周辺に響き渡っていた。
それから更に数分後には、アストレイン公爵家の私設騎士や衛兵などが駆けつけてきたのだが、ゲンガ=レムニアが現出させたこの珍妙な光景に呆然となり、ただ必死に笑いを堪えるしかなかった。
「……一体、何事だ」
そこへ、落ち着いた低い声音が降りかかってきた。
レムニアの父であり、現アストレイン公爵家当主、シュヴァル・アストレインが駆けつけてきたのである。
シュヴァルはすぐさま状況を把握した様子で、呆然としているメイドや周囲で固まっている騎士や衛兵には目もくれずに、ゲンガ=レムニアの傍らに歩を寄せていった。
「こ、公爵閣下! 危のうございます!」
執事のひとりが叫んだが、しかしシュヴァルはそんな声も無視して、ゲンガ=レムニアの前に立って厳しい視線を投げかけてきた。
「お前がやったのか?」
「然様……親父殿は確か、こういっておられたな。アストレイン家は一切、助力せぬ。その代わり、如何なる行動も咎めぬ、と。その言葉の通りにしてやったまでよ。何ら謗りを受けるいわれは無い」
しばしの沈黙。
周囲の者達はただ固唾を呑んで、ふたりのやり取りをじっと見つめるのみ。
そんな中でシュヴァルは不意に大声で笑い始めた。
「確かに、その通りだ。お前に罪は無い。お前を貶め、甘く見た者が悪いのだ。この件は不問に処す。異議のある者は今すぐに申し立てい!」
シュヴァルの宣言に執事も、家士達も、メイド達も、そして騎士や衛兵達も愕然たる表情でその場に立ち尽くした。
当主たるシュヴァルが、突如として覚醒した我が娘の力を、この場で称賛した格好だった。
「見事だ、レムニア。後で話を聞かせてくれ」
「御意」
そこで、この場はお開きとなった。
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