第9話 幽明の調べ 其の四

 結城は溢れる涙を止めることも出来ず、屋敷の客間の方へ歩いていった。そこは夜ともなれば、行き交う者も居なくなる。


「今・・・・なんと仰せになられました・・・・御寵姫殿・・・・。」

「貴女を呼んだのは徐庶じょしょに、曹操様の参謀になって頂くため。」

「な・・・・では、では・・・・徐庶がここに居ると言うのは・・・・。」

「そう言わないと来ないでしょう?」


― 柚?! ―


 結城は不意に聞こえてきた声に立ち止った。いや、動く事が出来ないでいた。柚と誰が話をしているのかは・・・内容からうかがえた。


― 柚・・・・貴女は人の心を踏みにじる事を平気で・・・・やれるの? ―


「このことは誰も知らない・・・これから息子さんを説得してほしいの。」

「なんと・・・そのような恥知らずなことを・・・・出きるわけがございませぬ!」

「そう、でも元直げんちょくはここへ来るわ。他の参謀方は知らないから、私の一存で決まるのよ?」

「・・・・・まさか・・・・まさか・・・元直を!」


 貴女次第なのだと言って、柚は部屋を出て行った。その場にへたり込んだ結城は力なく空を見つめた。底知れぬ不安感と危機感が心を占める。

 咄嗟的に部屋に入った結城は、徐庶の母が短刀を振り上げているのを見て、彼女にしがみ付いた。


「・・・・まって、死んではいけないっ!」

「!!」

「あっ!」


 辺りに血の臭いがたち込める。ポタリ・・・ポタリと床を濡らす赤い染みが大きくなっていく。


「ああ、何故・・・・何故に・・・私は元直に何と言って詫びたら・・・・・。」

「貴女は・・・・死んではだめ・・・生きて。」

「貴方はまさか・・・なぜそのような格好を・・・・・・。」

「お腹を痛めて生んだんでしょ・・・だったら、ちゃんと生きて死ぬ寸前まで息子の生き様を見届けなさい!」

「・・・・しかし、元直はもうすぐ・・・ここへ。」

「大切なのは今、何が出来るか?何をすべきかでしょ・・・・服を脱いでっ!」


 結城は腕の痛みに耐えながら、薄絹一枚を残して自分の服を元直の母に渡した。自分が不用意に動けば、多くの者に迷惑をかける。それは充分に承知していた。

 しかし、柚にこれ以上、罪を重ねさせる事はできない。たとえそれが仲達を裏切る事になろうとも・・・・・。


 元直の母は言われた通り、結城の服を纏った。


「闇夜に乗じて逃げて。水鏡先生・・・・司馬しば 殿の所へ・・・事情を話せば徐庶殿を止めてくれるかもしれない。」

「そなたは・・・・その怪我・・・早よう医者に・・・。」

「私は平気です。今は貴女が無事だということを徐庶殿や孔明殿にお知らせして・・・・手遅れにならないうちに・・・早く!」


 結城は彼女が部屋から去ったのを見て素早く服を手に取ると、自身の血痕を残しながら井戸へと向かった。傍にあった大きな石に服を巻き付けて井戸へ落す。


バシャ――――――ン!


 大きな水音を聞きつけた者達が井戸に走りよっていく。その騒ぎを廊下の軒下で見送ると、闇にまぎれるように結城の姿は消えた。




「・・・・仲達殿・・・これは・・・・・拙い事になりましたな・・・。」

「元直殿の母御が死を選ぶとは・・・やはり、御寵姫の行動を止めるべきでしたな・・・・。」

「・・・・・・・。」

「仲達殿?」


 仲達は駆け寄ってきた柚を一瞥いちべつすると、その場にいた全員に命を下した。


「これから私は事のあらましを曹操様に報告する。よって、無駄にこの井戸に近寄る事を禁ず!」

「何をいってるの・・・・落ちたのなら・・・・助けないと・・・・。」

「御寵姫よ・・・何を言っておられるのだ?」

「何って・・・・。」

「母御を絶望の淵から叩き落すような選択を迫られたのは貴女だろうに。」


 仲達の声は低く、氷のように冷たい。集まった者の軽蔑けいべつともつかぬ視線に柚は後退あとずさった。



 長い夢を見ているような感覚。どれほどの時間が経っただろうか?痛みと貧血で結城は眩暈を起こしていた。

 あれから自室へ戻った結城は腰紐を止血に使い、腕の治療を試みていた。といっても医者ではないのだから、裂かれた肉を繋ぎ合わせるような技術はない。

 幸い動脈も静脈も無事のようだ。応急手当の処置法を運転免許取得時に学んで良かったと、ボンヤリ思うほど冷静だった。


 結城は頭の中で冷静に考える。

 何が出来ていて何が足りないのか・・・自身に問答する。


司馬しば 仲達ちゅうたつという男は頭がよい。気転も利く。その参謀に連なる荀彧・荀攸・程昱等の面々も義と礼を重んじる。

 それに、今朝からの不自然きまわり無い態度は、今回の事を予測していたのではないだろうか?だとすれば・・・。

 喩え、井戸の件が誰かの目論見だろうと判っても、曹操に報告した以上・・・・仲達も曹操自身も、柚のしたことを被るだろうと思った。

 それだけの技量のある漢なのだと。

 でなければ結城自身を柚を迎える時に切り捨てていただろうから。そう結論付けて 今後を考えた。


 如何なる理由があろうと、仲達達をだますことをしてしまったのだ。ここにはもう居れない。後は自分が屋敷から姿をくらますだけだと。

 腕の止血をしたまま服を着て、いつものように書を持つ。少し違うのは懐に今まで頂いてきた賃金を少しだけ袋に入れて持ったこと。残りは卓の上に乗せ、部屋を見回る。


 そのまま振り向かず、部屋を後にする。散策を装い、道行く武将に挨拶をして城下へ出て行った。


 いささか歩き疲れたころ、不意に帰る場所も何も無いのだと心細くなる。眼下に長江へ続く支流を見て、結城の足は動かなくなった。

 司馬しば の元へ帰りたいが、元直の母がまだ居るかもしれないのだ。

 三国志演義では徐庶は曹操の元へ行き、それをなげいた母は死んでいる。

 しかし、その反対の説もあるのだ。今となってはどちらが良かったのかも判らない。


 崩れるように倒れた結城は遠くからひずめの音が近づいて来るのを聞いた。


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