掌編小説集

前田渉

愛するということ

地蔵を蹴りたおして帰ってきた。大きいほうのじゃなく、小さいほうの地蔵を二体、足裏で押しだすように転がしたのだ。何が子どもだ、子宝だ。ろくなもんじゃない。子どもがいなけりゃ、わたしはこんなに苦労をして、日々いらいらしながら疲れ切ってすごすことなんてなかったのだ。冷たい水道水を我慢して手を洗っていると、軋む金属のドアを開け、息子が洟をすすりながら入ってきた。

「ただいまー」

「おかえり」

「ママ、さむい」

「寒いね。手袋ちゃんとしてた?」

「しててもさむいのー」

薄闇から息子が出てきた。見ると、洟が人中を濡らし、唇にもかかっている。ああ汚い、ティッシュをもっていってただろ。顔を顰めたくなる。

「ティッシュ持ってかなかったの」

「わかんない」

「わかんないじゃないよ、もー」

ほんとうにわかんないじゃないんだよ。何のために、朝あれだけくどくど確認したんだと思ってる。ここで尻拭いさせられたくないんだよ。ティッシュで垂れた洟をかむくらい、いい加減できるようになってほしい。もう小学生だろ。それくらいの自分への気遣いを習得できてしかるべきだろ。ティッシュを二枚とって、洟をかませた。それでもまだ洟が糸を引いていたので、それを数回繰り返した。それでやっと鼻水が垂れなくなった。

手を洗わせるために踏み台を流しの足元に置いてやると、息子はぴょいと飛び乗って自ら蛇口をひねり、手を洗いはじめた。が、すぐに水から手をどけてこちらを振り返り、

「ママー、つべたい」

お湯使っていいよ。ちょっと待ってね」

何でそんなダバダバ出すんだ。加減というものを知らんのか。学習できない息子が嫌になる。そんなところまで私に似なくていいのに。苦虫を嚙んでいるのをひた隠しにして、ぬるま湯に調整してやった。

「はい、これくらいでどう?」

「あったかい」

ハンドソープを手にとって小さな両手を擦る。その間も蛇口は開きっぱなしだ。

「泰ちゃん、使ってないときは水止めてね」

「うん、わかった」

素直に蛇口をひねった。しかしそもそもの力不足に加え、ハンドソープのせいで強く蛇口をつかめなくて、不十分にしか蛇口を締めることができていない。細い水流が柱のように粘っこくシンクに吸いこまれていく。息子はもう関心がないようで、丹念に手を洗っていた。

ハンドソープを洗い流して蛇口を締め水滴を振って飛ばし、タオルを二、三揉みしてまた踏み台をジャンプして降りた。そして私を見てニカッと笑い、両手を広げて走り寄ってきた。さっき拭いた鼻の下には、洟の乾いた白いカスがついている。そして手も拭けていないだろう。どうしてそんな汚いまま、手が濡れたまま人とくっつこうとするのだろう。理解しがたい、ほんとうにこういうガキというものは! 張り飛ばしてやりたい、蹴倒してやりたい。

私は息子を抱きしめてやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る