第36話





 大きな衝撃と共に肺の中の空気が一気に放出され、目の前が真っ白になる、——が、意識だけは手放さないよう必死で耐える。遅れて立ち上がってくる痛み、だがそれこそセシリアが賭けに勝った証左であった。


「がはっ。はっ、はっ」


 少しずつ息を吸って、痺れる全身に行き渡るように血液を流していく。徐々に正常に戻っていく感覚、そうしてセシリアはようやく現状を把握する。


 ——こんなに吹っ飛ばされたか


 雄叫びを上げながらのたうち回るブルーは遥か彼方。目の前の木々は無残に折れ、倒れ伏していた。背後の巨木が無ければ、セシリアはもう少し吹っ飛ばされていただろう。意識を保つことができたのは偏にセシリアの執念と言って良かった。


 痛みと痺れで動けないセシリアだったが、それは相手も同じ。ブルーもまた、慣れぬ痛みに喘いでいた。長い爪を携えた両腕は、今なお血の流れる顔面を不器用に覆い、痛苦と憤怒は咆哮として外に放出される。吠え叫ぶブルーの近くにはそれを為した長剣が無造作に投げ出されていた。


 激突の瞬間、セシリアは少しでも衝撃を和らげるために剣を手放し防御姿勢を取っていた。負傷による混乱もあって多少の威力の軽減はあったものの、重戦士よりもなお重い魔物の突進、意識の有無どころか落命の可能性すらあった。


 ——それでも、賭けに勝ったのは僕だ!


 セシリアは心の内で吠え、未だ動かぬ体を奮い立たせる。痛打を与えたとはいえ、まだ致命傷というわけではない。すぐに迎え撃つ準備をしなければ、今までの努力は水の泡だ。


 痛む体にむち打って、セシリアは這う這うの体で大木の裏に回る。その直後、およそ戦場には似つかわしくない声が後ろの方から聞こえてきた。


「だ、大丈夫ですかっ!」


 駆け寄ってきたのは待機させていたレナだ。吹っ飛ばされる方向にレナがいたからこそ、あのとき勝負を仕掛けたのだ。思惑通りに事が運び、セシリアは痛む体のことも忘れ、安堵を覚えた。


「ぁ、あぁ、なんとかね。じゃあ、作戦通りお願いできるかい?」

「こんな短い時間じゃ、本当に止血くらいしかできませんよ」


 絞り出すように答えたセシリアにレナは正気を疑うように重ねた。辛うじて体の形は保っているものの、数多の裂傷に加え、この様子では内臓もいくらか損傷しているだろう。本来ならすぐにでも、安静にして治療を待つべきだった。それでも止まらないことを、きっと二人とも知っていた。


「ああ、それで十分だ」

「……分かりました」

「ありがとう」


 やりとりは最小限に、すぐにレナは無残な状態のセシリアに回復魔法をかけていく。温かな光に包まれ、セシリアはようやく大きな一息をついた。


 横になり回復を待ちながら懐から肉の代わりに血の入った腸詰を取り出し、大木の下に投げ捨て、破裂させる。鼻を塞ぎたくなるほどに濃厚な血の匂いが立ち昇っていくのを感じながら、セシリアは思考を巡らせる。


——これで仕掛けは十分かな


 この強烈な血の匂いによってセシリアがまだここに倒れていると誤認させること、それがセシリアの立てた決死の作戦だった。


 視界を奪ったのはそのための最低条件であった。高位の魔物は自然治癒力も高いとはいえ、あそこまでの深手かつ黄金ゴールド級になりたての魔物、視力を取り戻すのに数分はかかる。そして、その数分すらブルーは待てない。それがセシリアの見立てだった。


 今の今まで自分をおちょくってきた下手人の瀕死を前に、傷が治るまで待つなど森の主としての矜持が許さないはず。そして、ブルーには視力を失ったとしても他に頼れる感覚、嗅覚がある。そこを逆手に取った作戦だった。



 ある程度傷が塞がったところで、セシリアは自分に洗浄魔法をかけ、血を洗い流す。これで、セシリアは血の匂いから解放された。冷静な状態ならいざ知らず、怒りで頭に血が上った今のブルーでは、この罠に気付くことはないだろう。


 ——後は、僕が斬れるかどうかだ。


 静かに決意を研ぐセシリア。そうこうしているうちに、ブルーが落ち着きを取り戻し始めたのが視界に映った。未だ傷は癒えていないものの、すぐに血の匂いを頼りにこちらに向かってくることだろう。


「ブルーが動き始めた。後は離れていて」

「くっつけただけですからね。無茶な動きしたらすぐにまた開いちゃいますよ」

「大丈夫、次で終わるから」


 ——僕か、彼かは分からないけどね。


 弱気な本音は内に隠し、有無を言わせずレナを下がらせる。レナが十分下がったのを確認した後、意識を完全にブルーへ移す。そうしてセシリアは腰に下げたもう一方の剣に手をかけた。長く続いた戦闘の終わりはもう目の前だった。




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